この星降る夜に、夢を。



4.

 全作業が終わったのは、結局、夕方になってからだった。何せ言葉の壁が大きく、フランス人のフランス語に対する頑なさって、頑固オヤジ並みっ! ああ、あたし、片言のフランス語とジェスチャーで乗り越えた自分に拍手を送りたい気分よ。慣れたつもりだったけど、困った時には自分が異邦人であると強く意識させられるわ。
 そういう訳で、研究室に戻った時には、あたしはもうボロボロな状態だった。誰か労ってくれないかしらと思いながらドアを開けたけれど、そこにいたのは、ちらっとあたしを見ただけで仕事を再開してしまった所長サマだけだった。今日はバレンタインだから、どうやら皆はいつにも増して早々と帰ってしまったらしい。
 何となく気まずい気持ちを抱えながら部屋の隅にある自分の机に向かうと、さっきまではなかった包みが、机の上に置かれている。不思議に思いながら挟まっていたカードを開けてみると、たった一文「Dreams come true…」と書かれ、その下にロジェのサインがあった。
 あたしは思い掛けない出来事に、思わず笑ってしまった。これは、フランス版友チョコといった感じかしら。――さて、あたしの大事な相談役であり、協力者であるロジェは何をくれたのかしらん!?
 ちょっとウキウキしながら包装を解くと、漆黒の箱に宝石のようなチョコレートが入っていた。様々な形や色、どれもあたしの眼には魅惑的に見える。甘い匂いに誘われて、赤いハートのチョコレートを一粒、口の中に放り投げれば、途端にラズベリーの香りが広がり、噛めば程よく苦いチョコレートと、薄く塗られたホワイトチョコレートが口の中で融けて合わさり、絶妙なおいしさが口一杯に広がった。その一粒で、クタクタだったあたしはあっという間に元気になった。
 ――そうだ、あともうひと踏ん張りだ。心を込めたなら、いつかきっと叶う!
 さあ、シャルル、マリナさんが出した答えに、驚くがいい!!
「シャルル、渡したいものが」
「いらない」
 にべもない答えとその早さに、思考が一瞬だけ止まった。
 あれっ、ロジェは喜んで受け取ってくれると言ってなかった……?
 口をパクパクするあたしを見て、シャルルは深さを増した感情の浮かばない青灰色の眼であたしの口をピッタリ閉じさせると、改めて口を開いた。
「ロジェが何を言ったか知らないが、私は受け取るとはひと言も言っていない。私は、何をもらったら嫌じゃないかと聞かれたから、それに答えただけだ」
 “受け取る”とは言ってないから、「いらない」っていう訳なのね。でも、そういう理屈でいうならば、“受け取らない”とも言ってないんじゃないかしら!?
 あたしはシャルルの所まで行くと、机に向かっていた彼を椅子ごと強引に振り向かせた。
 不機嫌と怪訝さを混ぜ合わせたような顔で、「まだ何か用か」とシャルルが聞く。あたしはゆっくりと、出来るだけ気持ちを落ち着かせて、「シャルルは受け取る必要はないわ。あたしはただ渡すだけだから」と、彼の全く変化しない瞳を見ながら言う。そしてあたしはゴクリと唾を飲み込み、空気を一杯吸い込んで、言葉として一気に吐き出してしまった。
「……シャルル、あたしは今からあなたにキスをしますっ!」
 それだけ言うのにも勇気がいったのに、当の本人はただ眉をひそめただけだった。何も言わない。えいっと、あたしはそんなシャルルの眉間にキスを落とした。一度離れてシャルルを見ると、彼はあたしを見つめ返してきただけで、動揺の気配すら感じられない。あたしはもう一度シャルルに顔を寄せて、こめかみ、頬と、立て続けにキスをしていると、シャルルに肩を掴まれ、あっという間に引き離された。
「君は一体、何がしたいんだ。それが……いや、いい。これで気が済んだだろう。帰れ」
 首を左右に振りながら、シャルルはあたしを追い払うように手を振る。その態度にムッとしたあたしは、シャルルのその手をはしっと両手で捕らえた。少しひんやりした、滑らかな、それでもその手は、男の人の手だった。シャルルは思ってもなかった行動に驚いたのだろう、体を震えさせると、パッと白金の髪を散らして顔を上げた。
「キスよ。……ただ、その、いきなり口にするのはどうかと思ったから……。今からするわよ。いいわねっ!?」
 シャルルの手を取っていた左手を肘掛けに置いて、体重を移動させる。シャルルの顔を再び確認すると、残念ながら相変わらずどんな表情も浮かんではおらず、そこにはただじっと実験の経過を見守る研究者の鋭い眼があり、どんな変化も見逃しはしないその眼が、この実験から得られるものは何かと見定めようとしていた。それが逆にあたしに火を点けて、シャルルの唇へと促した。
 唇と唇を重ね合わせる。
 それだけで心臓が大きく波打つ。
 全神経が重なった部分に集中する。感覚を知ろうとする。
 微かな息が血の流れを早くさせる。
 ――欲する心の内で、何かがキラリと光った。
 その時になってようやく、あたしはシャルルの視線に気が付いた。慌てて唇を離すと、見下ろしていたふたつの瞳があたしを追って動いた。その銀色を帯びた青灰色が嘲笑を帯びて輝いているのを、顔が赤くなっていることを自覚していたあたしは、驚きを持って見たのである。




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