この星降る夜に、願いを。



8. 夢見る者達の秘めた憧れ。


 部屋を出てからずっと無言で負のオーラを放出し、カツカツと規則正しい足音をさせて前を行く男に、ロジェは肩をすくめた。
 知り合ってまだ間もないとはいえ、あんな風に彼から親しげに話しかけられたことは一度もなかった。それも、彼が話したがらない日本語で。大抵はロジェが一方的に日本語で喋り倒し、シャルルが二言三言フランス語で答えるだけ。時には、無下にも切り捨てるような言葉を吐かれたこともある。それでも彼がシャルルを憎めないのは、彼の一方的な、けれども寛容な思いからだろう。
「なあ、邪魔したこと、まだ怒ってるのか?」
 揺れる長い白金髪を横目でうかがいながら、ロジェは後ろを振り返った。部屋にいた彼女が出てくる気配はない。そこには、ピタリと閉じた扉があるだけ。シャルルがわざわざ日本語で話しかけたからには、彼女にも通じるようにしたかったのだろう。もし、そこに居合わせたのが日本語が話せない自分以外の者だったなら、彼はどうするつもりだったのだろうか……。
 そこまで考えた時、シャルルの冷たい声が廊下に響いた。
「彼女とは、そんな関係じゃない」
 前を見ると、髪を片手でかき上げたまま、前を向くシャルルの姿があった。少しだけ見えた青灰の瞳には、悲しみと苦しみ、そして強い苛立ちの色が見え隠れしている。
「だって、おまえ……」
 カツンと高い音を立てて、シャルルの歩みが止まった。
「何度も言わせるな! 彼女とは何もない。これでもう充分だろう!?」
 ギリッと睨まれ、ロジェは息を呑んだ。これ程強く感情を見せたことのないシャルルに驚き、目の前に迫る銀色を帯びた彼の眼で射止められた気がしたのだ。シャルルはそれだけ伝えると、ふっとロジェから離れ、何事もなかったかのように再び歩き始めた。
 ロジェは栗色の髪をクシャッと握り、掻き乱したい衝動に駆られた。頭の中を整理しようにも、整理できない。ただ答えを得られない質問事項が脳内で暴れている。
 より深くなった眉間の皺を伸ばすことなく、彼はシャルルの後ろ姿を追いかけた。曲がり角を折れると、ロジェはシャルルの隣に並び、彼の横顔を見つめる。そこには先程までの感情が跡形もなく消え去って、しんとした静けさだけが支配していた。そんないつもの横顔を見つめながら、ロジェは組んだ一方の手を顎に当て、考える仕草をして見せた。それからおもむろに、彼は口を開いたのである。
「――シャルル、彼女の下着の色を見たか?」
 問われたシャルルは、あからさまな侮蔑を露わにし、ロジェを睨み付ける。彼はそんなシャルルの視線をチラリと見ただけで交わし、ふむ、と唸って前を向いた。目線の先には、小さく揺れ動く人影がある。事務の奴だ。こちらに気付き、近寄ってくる。目的はシャルルかな。そう思いながらロジェは思考に耽った。
 少なくとも、他の男が彼女を性的対象として見ることに不快感を覚える程度には、シャルルは彼女のことを想っているのだろう。
「もっと遅く来れば面白かったな……」
 そんなロジェの呟きをシャルルは聞き逃さずはずもなく、彼に向かって口を開きかけた。が、
「所長、日本からお手紙です」
 日本という言葉に、シャルルはキュッと唇を結んでしまった。そんな様子を横で見ていたロジェは不思議に思っていた。今日は日本というキーワードがよく出てくる、と。そして、シャルルのこの反応。それらは全て、あの彼女と関係しているような気がした。
 青年はシャルルの前に立つと、一通の手紙を彼の手のひらに載せて奥へと戻っていった。ロジェが覗いてみれば、それは水色の封筒で、流れるような斜体文字と差出人の名前が印象的だった。相手はどうやらハーフみたいだ。

 “Kazuya François Laurencin”

 その名前を見て、シャルルの動きが止まった。青灰色の眼を半ばほど伏せ、どこか遠くを見ているような目つきになり、感情はあっという間に落ちてしまっている。
 ロジェはそっと溜息をついた。発作だ。しばらく待っても動かないようなら、談話室の様相を呈してきている元会議室に戻り、皆にシャルルは来られないと告げなければいけない。面倒なことになった、と後ろ頭をかいていたのだが、突然シャルルが動き始め、乱暴に封蝋を解くと、白い便箋を取り出して読み始めたのである。眼は暗く輝いていたから、半覚醒状態に違いない。
 残念ながら中の文字は日本語で、ロジェには読むことは出来なかった。けれど、足元を見ると、シャルルが落とした水色の封筒がある。それを持ち上げると、そこから小さなポストカードが出てきて開き、中の文字が見えてしまったのである。そこには、「Courage!」とひと言だけ書かれてあり、ロジェはその手紙の輪郭を覗き見た気がしたのだった。
 シャルルは手紙を持ったまま考え込み、何故か資料室の方へと足を向けている。封筒には気付いていないみたいだった。ロジェが慌ててカードを封筒と共に差し出すと、彼は無言のまま受け取り、その歩みすら止めようとはしなかった。

 カードからはオルゴールが流れ、運命は思いがけなくやってくる、と奏でていた。





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