この星降る夜に、願いを。



7. 瞬く星に願いをかける時。


 頬を傾けて近付きつつあったシャルルの顔を何とか止めなければと思って、彼の肩に手を伸ばそうとした時、シャルルの眼がパチッと開かれた。鋭い青灰の瞳に思わずビクッとして手を止めると、シャルルは一瞬、緊張した顔を見せ、さっと手を動かして服を元の位置に戻したのである。
 声を失ったまま固まっていると、研究室の扉がノックの音と同時に開かれた。シャルルが起き上がる前に一瞬だけ見えたその人は、視線をゆっくりと彷徨わせ、誰かを捜しているみたいだった。
「シャルル、ちょっと話が……」
 そこまで言いかけて、シャルルと、シャルルの体の下から飛び出ているあたしの脚を見たその人は、ビックリしたように立ち止まり、事情を察したように片手を上げ、謝って出て行こうとした。シャルルの体が視界を遮っていて見えないとはいえ、こんな体勢でいるところを目撃してしまった人の行動というものは、あたしでも分かる。
「邪魔したな」
 理由も聞かずに、何か誤解したまま去っていこうとするのよ。あたしはこんなに助けて欲しいと思ってるのにっ!
「いや、いいんだ。彼女はもう帰るそうだから」
 シャルルがゆっくりと起き上がり、そう弁明して彼を引き止めた。その隙に、あたしはソファから逃げるようにして、さっきまで座っていた椅子の元へと舞い戻ったのである。でも、ホッとした途端に、シャルルの言葉にムッとなってしまった。ちょっと、誰が、いつ、帰る何て言ったのよ!?
「そんなことより、ロジェ、思い出というのは、パンドラの箱のようなものだと思わないか?」
 あたしは思わず怒りも忘れて、シャルルの皮肉げな言葉に耳を傾けてしまった。それって、ひょっとして、あたしのこと……?
 シャルルは物憂げに言葉を繋げていて、うっかり聞き逃すと、そこに立っている人に向けて質問を投げかけているように聞こえるのだけど、シャルルの様子を盗み見ると、どうもそういう雰囲気ではなさそうだ。
「まあ、そういう部分もあるな」
 けれど、栗色の髪のこの人はそういったことも気にはせず、シャルルに軽く相槌を打った。シャルルは、少しだけ頷く。
「思い出がどれ程美しく、甘美だったとしても、開けない方がいい。人間は過去を美化し過ぎるから、目の前にやって来た現実を見ると幻滅するんだ」


 その後、しばらく、シャルルと彼は少し言葉を交わして出て行った。何を話していたのか、あたしには聞き取ることが出来なかった。何も考えることが出来なくて、ただ、シャルルが手当してくれた手をじいっと見つめていただけだった。あたしひとりが部屋に残されると、途端に静けさが襲ってきた。あっという間に怖くなる程の静寂に包まれ、そこに、小さな音が遠慮がちに響く。
 ――パタッ。
 シャルルの言葉は、やはり、あたしに向けられていたのだろう。
 今のあたしを見て、幻滅したと。
 ――ポタッ。
 あたしは、もう、彼の後を追いかけて行けなかった。
 いくつもの透明な雫が、ガーゼの上に落ちては沁み渡っていく。その白さが眼にしみて、ぼんやり滲んで見えた。
 飾り気のない無機質な部屋は、相変わらず静かだ。
 あたしに出来ることは、その静寂を壊さないことだけ。あたしは今度こそ、声も上げずに静かにしていようと思った。その感情の留まる所がどんなに寂しいか、どんなに恋しいか、誰も知らない。けれど、あたしはそこをどうしても哀しい思い出で埋めたくなかった。
 そして、願わくば、その暗闇のようなそこから、救ってくれる手が欲しかった。たとえ今、その方法が今は分からなくても、心の底から望み、そう願うなら、いつか必ず訪れる。それは遠く、果てしない夢物語になるかもしれない。あたしは、夢追人になるかもしれない。それでも、あたしは諦めることが出来なかった。さっきまでは。

 ――その時、ふと、和矢が教えてくれたメロディーを思い出した。

 “どんなことでも 心から願うなら”
 “きっと願いは叶うでしょう”

 あたしは歌詞を思い出して、少しだけ笑った。
 そうして、あたしは自分がその立場になってようやく、昔のシャルルの気持ちが見えたような気がしたのだ。あの時、どれ程苦しんでいたか、どんなに解放したかったか……昔のあたしは、彼のそんな声を本当に聞こうとしなかった。
 そうやって傷付いて真っ赤になった彼の花の棘は、現在、触れる度にあたしの胸に深く傷を負わせたけれど、それと同じくらい、彼は棘を自分にも向けていたのかもしれない。痛くて痛くて、だからあたしを遠ざけたのかもしれない。他人に厳しい彼だけど、自分にはもっと厳しいのが彼だから。本当は、あたしよりももっと痛かったに違いない。
 誰よりも自分の心の奥を知っている彼の青灰色の瞳は、あの時一瞬、下にいたあたしが狼狽えてしまうような色をしたのだ。あんな顔を見せられるくらいなら、どんなに苦しくても、自分の気持ちを押し込めることの方がまだマシだと思える程。
 あたしは自分の言葉に深く後悔した。まだ何も始まっていない内から、自分の手で終わらせてしまったのだと。でも、どうやったって時間は戻せない。だったら、今あたしが出来ることはこの悲しみから立ち上がり、数ある選択肢の中から自分はどうしたいのか、またどうするべきなのかを考えることだ。あたしは、もうたくさん泣いた。たくさん悩んだ。だったら次は、立ち上がることが出来るはず。


 薄く迫った夜の青の中に星の瞬きをひとつ見つけて、あたしは小さく願いをかけた。
 眼を閉じれば、青灰色の光りが揺れている。


 ――そうして、彼に言わなければならないことが、ひとつ消え、ひとつ増えた。





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