この星降る夜に、願いを。



4. 常に変わり続けるその色合い。


 彼は研究所を出て、通りを人の眼など構わずに歩いていく。
 皆、物珍しそうなモノでも見るかのような目つきをあたしに向けてきたけれど、あたしはそれにも耐えて、なおも強く彼のジャケットを握りしめようとした――それが、いけなかったのかもしれない。
 あたしは次の瞬間、敷石に蹴躓き、体勢を整える暇もなく、パリの素晴らしい石畳と熱い熱い、キスをしてしまったのである。うっ、あたしのドジ。嫌いよ、石畳なんてっ!
 そうしてじんわりと込み上げてくる熱と痛みに、急にみじめな気持ちになって、あたしはそこから顔を上げることが出来なくなってしまった。それまでどうにかこらえていた涙が堰を切ったように流れ始め、石を黒く染めていく。それはまるで、あたしの心のようだった。心が黒く染まっていくのを、あたしはどうしても止めることが出来なかった。もし、絶望というものににおいがあるとしたら、それはきっと、こんなにおいだろうと思えた。
 彼はきっと、振り返りもせずに、立ち去ってしまったのだろう。あたしはそれがまた悲しくて、人目も気にせずに声を上げて泣いた。彼には、もう、あたしの言葉は届かない。あたしの想いは言葉にもならずに、転んだ時に砕けてしまったのだ。

 ――あきらめたい。

 あたしは、シャルルを、諦めたい。
 言葉にしたくない感情がどこかでそっと芽を出すのを、あたしは悲しい思いで見つめた。
 諦めない限り、この思いはより濃く、深く、繰り返されるに違いないなかった。願いが叶う望みなどないのだと、キッパリと知らされたから。だから、そうなる前に諦めてしまいたかった。
 でも、あたしは気付いた。いつの間にか、あたしに向けられる好奇の眼が遠のいていることに。そして、あたしに向かって差し伸ばされている手が、目の前にあることに。
 眼鏡が外れて、涙でぼやけて、視界が悪かった。けれど、それでも目立つキラキラとこぼれた白金の長い髪は、あたしを安心させてくれた。こんな色の長い髪を持つ人は、パリでも珍しい。
「おい、そんなに石畳が好きなのか。そのまま結婚するつもりなら、構わずに置いて行くぞ」
 ……こんな時に、そういう冗談は止めてほしい……。
 あたしは途端にムッとして、上半身をガバッと起き上がらせた。座るような体勢でいるので、彼を真下から見上げるような格好だ。
「ちょっと、それが転んだ女の子に向かって言う言葉なの!?」
「失礼。女の子には見えなかったもので」
 相変わらず他人行儀で失礼な口調だったけれど、力を入れる間もなくひょいと立ち上がらせてくれた力強い腕には優しさが感じられた。外見じゃそうは見えないけれど、やっぱり力はある。うん、シャルルも女の子とは思えない。
「研究所に戻る。お詫びに、君の手当だけはさせてもらおう」
 そう言って、シャルルはあたしの手のひらに眼鏡を乗せてくれた。丁寧にも、畳んでくれている。いつの間に拾ったのだろう……?
 あたしが不思議に思いながら眼鏡をかけようとすると、彼は右手を上げてそれを止め、あたしの手を取って歩き始めた。でも、ふと気が付くと、あたしの手はいつの間にか彼の腕にしっかりと回されている。間近に迫った彼に驚いて手を解こうとすると、逆にぐいっと引っ張られ、呆気なく阻止させられてしまった。
「おまえの眼は、裸眼で普通に歩けるぐらい視力がいいのか? また転びたくなかったらしっかり掴まっておけ」
 彼が何故か苛立たしげな声色で、まっすぐ前を向きながらあたしに言う。あたしはドキドキする心を静めながら彼を見上げ、さらなる抵抗を試みた。
「だったら、どうして眼鏡をかけちゃいけないのよっ」
 すると、彼は一層腕に力を入れ、顔を近づけて冷たい視線をくれると、静かに口を開いて言ったのだった。
「君の顔にも傷があるのが分からないのか。まさか、君の顔面には神経が通ってないって言うんじゃないだろうな?」
 その言葉と凍りつきそうな視線を浴びて、あたしは大人しく彼の指示に従うことにした。もちろん、痛くない訳がない。ただ、こんな髪も服も乱れて顔も涙でぐちゃぐちゃな、そんな悲惨な姿のまま、シャルルの横にいたくなかっただけなのよ……それなのに、そんな気持ちを、あんたはちっとも分かってくれないのねっ!
 けれど、そんなあたしの心も、パリの素晴らしい街路樹も、お洒落に着飾っている人々も、路地に漂うおいしそうな食べ物の匂いも、全部、傍にいる彼の温かさによって奪われてしまう。あたしは何だか恥ずかしくて、前を向いて歩けなかった。眼を閉じれば、彼の香水の香りがふわっと風に乗って漂ってきて、ドキドキする心を優しく包んでくれるような気がするのだ。
 シャルルは、今、あたしの歩調に合わせてゆっくりと歩いてくれている。
「おい、しっかり前を見て歩け。次の角は右だ。左じゃない」
 言葉使いは酷いものだけれど……。





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