この星降る夜に、願いを。



2. 真っ赤な薔薇の鋭い棘。


 そして現在、目の前には、素晴らしく美しくなった彼が立っている。
 和矢とのお別れから何年も経って、今ようやく、彼の前に立っているのだ。何か、一言ぐらい欲しいものである。

 あたしは今、ひとりでフランスのパリ、それも、天才と呼ばれる彼の研究所のホールにいて、無限の時の中、彼と対峙していた。
 ひとりになってからようやく気付いた感情を、あたしは大事に育ててきた。それは、何よりも好きな和矢のためでもあったから。だからあたしは、勇気を振り絞って、この感情を育てる決意をしたのだ。
 そう、確かに、そんな気持ちでいたのだけれど、あたしは彼の態度に少々ムッとした。この美貌の青年は、あたしのことを忘れた訳ではないだろう。昔、彼がくれたあの真摯な言葉の数々は、今もあたしの中にある。なのに、あたしが何年もの歳月をかけて再び彼の前に現れると、彼は氷塊のように、表情から感情まで、全てが固まってしまったかのように動かなくなってしまったのだ。
 そこから漂う、怖いくらいの沈黙。
 そんな彼を見て、あたしは嫌な予感を抑えるのに必死だった。



 その数分前、あたしは彼の姿をじっと見つめ、息を呑んでたたずんでいた。
 眼が離せなくなる程の美しさだ。けれどそれは、当初あたしが想像していたやわらかいものではなかった。それがこの数年間、彼の身に起こった全てであるかのように、あたしには思えた。彼の美はとても洗練されていたけれど、冷たく、冴えたものだったから。
 長い白金の髪を風に舞わせ、一見やわらかい雰囲気を見せるのに、それと対照的なまでに冷たく、どんなものも凍りついて切り裂けそうな鋭い青灰の瞳。その瞳が、冷たく輝きながらイライラと辺りを見回しているのだ。あたしはそれだけでもう、ただならぬ雰囲気を感じ、凍りついてしまいそうだった。でも、天使のようなカーブを描いていた頬は、その面影を少しだけ残しながら大人のものへと変化を遂げていたけれど、よく通った鼻筋も、花形の唇も、どれもが微かに見覚えのあるものだ。
 ただ、彼が纏う、その冷ややかな雰囲気さえ、なければ。

 別人だと思った。
 別人だと思いたかった。
 ――でも、別人じゃなかった。

 それは何より、心が敏感に反応したこと。
 今までに感じたことのないような喜びの方が大きく勝り、心の中にある、あらゆる感情のドアをノックして騒ぎ立てている。あたしは気を静めて彼と向かい合ったのだけれど、ちょうど眼があった瞬間、彼は凍りついたように立ち止まり、全ての感情を冷たい仮面の裏に隠してしまったのである。
「何の用だ」
 その声色は、今までに聞いたこともない程低く、感情が見えない声だった。
 だからだろうか……お陰で、今、彼が何を思って、何を考えてそう言ったのか、分からない。だから、彼の普段何気なく使われる言葉をこんなにも悲しく受け止めてしまうのだと、そう思いたかった。でも、そう思わせてくれない瞳がそこにはあって、それがまっすぐあたしに向けられていた。蒼白い蛍光灯の下で見る彼は、より一層尖った表情をしている。
「――いや、用があっても帰ってくれ。私は忙しい」
 彼の言動全てが、拒絶を露わにしているのが分かる。
 あたしが彼を別人だと思いたかった理由が、そこにある気がした。
 この瞬間まで、あたしはどこかで、シャルルが昔のように出迎えてくれるのではないかという、淡い期待を抱いていたのだ。



 ――でも、マリナ、この恋は、おまえの予想する以上に辛いものになる――





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