追い詰められた猫と噛まれそうになった鼠




 横を見なくても、マリナにはそこにシャルルの手があることがわかった。それをゆっくりと辿っていけば、白金の髪の間からこちらを見つめてくる熱っぽい瞳の色がある。そんな瞳を前にして、マリナは、シャルルから聞こえる秒針の音が自分の鼓動よりはっきりと聞こえる気がして困ってしまった。
「あたしは、別に、意地悪なんかしてないわよ……。大体、あたしに話せない理由って、何よ。あたし、何もしてないわよ」
 慎重にそう言うと、シャルルは顎を上げて斜めにマリナを見た。その動作に、マリナは途端にムッとする。
「なるほど。君は確かに何もしてないかもしれないね。オレの留守中、うれしそうに館に滞在していたことまでは許してあげる。うちの使用人に迷惑をかけたこともね。だけど、オレがいない間にコソコソとデートすることはないんじゃない?」
 シャルルの顔が、マリナの顔と同じところまで下りてきた。シャルルの香りが、マリナの感覚を支配する。シャルルの腕にも、その腕を掴んでいるマリナの手の上にも、長い髪が流れ落ちる。クラクラと軽いめまいを覚えながら、それでもマリナは、どうにか壁に背中を押し付けつつ立っていられた。
「で、デートって、何のこと……?」
「ああ、こういう噂はなかなか本人達の耳に入らないからわからないのかな?」
 シャルルは意地悪く言って、皮肉げに笑う。
「君とお似合いだという男と一緒に、楽しく歩いていたんだろ。これがデートじゃないなんて言わせない。中学生じゃあるまいし、男と女が一緒に歩いていたら、それはもうデートっていうんだよ、マリナちゃん」
「……シャルル……」
 極論過ぎるとマリナは思ったが、口には出せなかった。
 代わりに出てきた言葉は、自分でも意外な言葉だった。考えるより先に、スルリとそれが口から滑り落ちていたのだ。
「もしかして、妬いてる?」
「…………」
 シャルルの動きが止まった。
 ジルの言葉がマリナの脳裏を横切る。
 ――シャルルは、ペピートとマリナさんの関係をどこからか知って、慌てて帰って来たのではないでしょうか。
 どうして?
 そこへ、沈黙を破るようにノック音が響き渡り、扉が外側から開かれた。
「なあ、マリナ」
 蜂蜜色の髪の中に指先を埋め、めんどくさそうにそう言って入ってきたのは、シャルルが嫉妬の目を向ける人物、ペピート本人だった。
「今日は動物園にでも連れて……」
 彼はすぐ横にいたマリナ達に気付くと、一瞬、凍りついたように立ち止まった。彼の目線の先には、わずかに赤みがさした頬をしながら、目の前にいる男の腕を握るマリナの姿と、そんな彼女の横に手を突きながら顔を寄せる、いつか見たあのミシェルとかいう男の姿。誰がどう見ても、恋人同士のように見えた。
「ペピート…」
 マリナが名前を呟くと、ペピートは上げていた手を下ろし、指先を揃えて軽く謝った後、静かに出て行ってしまった。完全に誤解されたと悟ったマリナは、彼が立ち去った後も扉を穴の開くほど見つめ、呆然としていた。最悪のタイミングだ。
「ひょっとして、あいつがデートの相手?」
「……そう。名前はペピート・ロラン」
 どこかで聞いた姓だと、シャルルは思った。
「マドレーヌの弟よ」
 シャルルの心情を察したかのように、マリナは答えを出す。
 確か、彼女の弟はふたりいたはずだ。下の弟はまだ、義務教育を受けている。
「年齢は15歳」
 シャルルに囲われながら、マリナは挑戦的な目つきでシャルルを見上げて、言った。そうすると、顔と顔との距離が短くなったが、マリナは気にしないことにする。もっと言ってやらないと、気が済みそうにない。
「彼がデートの相手の、ペピート君よ! マドレーヌが風邪をひいたから、代わりに市内を案内してもらってたのっ!!」
 文句があるなら受けて立ってやる、というような眼をして、マリナは口を閉ざした。
 どうやらマリナは、シャルルがマドレーヌに、自分がいない間に館内で騒動を起こさないように観光に連れ出してくれと密かに頼んでいたことを知っていたようである。そしてシャルルは、その相手が男に代わった途端、そのことと結びつけられずに思い違いをしてしまったのだ。いくら自分の知らないところで話が変わってしまったからといって、中学生相手に早とちりをしてしまったことに、シャルルは呆れながらも妙な安堵感を感じた。
「……わかったよ。わかったから、そんな眼で睨むのは止めてくれ。話すから」
 穏やかな日を願うから、誰にも言わずにおこうと思っていたのに。
 でも、伝えようとしている。君だけに。
「その代わり、覚悟しておいた方が良いと思うよ、マリナちゃん」
 憎いほど愛おしい、この想いの丈を。



  <終>



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