追い詰められた猫と噛まれそうになった鼠




「で、昨日はマレ地区に行って来て、住宅街をブラブラ歩いてきたのよ。凄いわよね、扉はともかく、窓にまで装飾してるんだもの。あの時代の人ってお金の使いどころが違うわ。私には考えらんないけど」
「君なら、まず間違いなく食事代がかかるな」
 透明なガラスのカップを持ち上げて、わずかに薄い琥珀色の紅茶を口に含む。様々な味が口の中で広がり、喉をスルリと通りすぎていく。ブレンドティーであるらしい。
「そりゃあそうよ。だって、外見だけ着飾ったって、ちっとも幸せになれないじゃない。あたしは、食べている時がいっちばん幸せ!」
 うふふと笑って、マリナはチーズケーキを口に運んだ。みるみると消え失せていくケーキを前に、彼女には嫌いな食べ物などないのではないかと、改めてシャルルは思う。彼女は、幸せを見つけるのが上手い。何をどうすればそこまで辿り着けるのか知っているかのように、そこまでの道が真っ直ぐだとでもいうように、彼女は迷うことはないのではないかとさえ思う。
「外見を着飾ることは、そう馬鹿に出来ない。人間はまず眼で見た情報からしか中を知り得ないから、外見に金をかけようとするんだ。上手くすれば、周りとの一線を画することが出来るからね」
「……そういうものかしら」
「そういうものだよ」
 何故だか切なそうな、不服そうな顔をしているマリナの眼に、シャルルの笑みが映る。じいっと見つめる視線に気付いたのか、シャルルが不意に顔を上げた。
「何?」
 確かにどこかおかしいのに、今、目の前にいるシャルルはマリナのよく知っているシャルルの顔をして座っている。長い白金の髪を背中に流して、澄んだ青灰色の瞳をして、物憂げな口調で話す。皮肉屋で、人間嫌いで、いつもどんな時でも冷然としている。
 ――あれ?
 本当にそうだろうか。
 マリナが今まで見てきたシャルルは、本当にそういう人物だっただろうか。
 確かに、マリナの耳に聞こえてくる周囲の声はその通りだと、実感して知っている。けれど、それだけの人間ではないことも、彼女はよく知っている。通り一遍の言葉だけで彼を語れるほど、彼は単純ではない。見た通りの人間だったなら、こんなに人を引き寄せることなんて出来ないのではないだろうか。
「何かあった? えっと……あの、その、向こうでなにか」
 思っていることを言葉にしようとしたら、失敗した。
「問題を起こしたとか」
「オレが? 有り得ないよ、マリナちゃん。君なら日常茶飯事だろうけれど」
 マリナはギクリとした。実は今朝、食料を運んでいた人間とぶつかり、トマトをいくつか駄目にしたのだ。散々嘆かれ、涙を流して責任を問う彼に、マリナは引き取って自分の家で使うということを必至で説得……いや、約束して、事なきを得たのだった。
「でも、目の付け所は悪くないね」
 驚いて、そらせていた目線を元に戻せば、そこにはグッタリとした様子のシャルルの姿があった。重そうに目蓋を閉じて、綺麗な顔に影を落としていたけれど、マリナの抱いていた不思議な違和感は感じられなかった。そこでようやく、彼女は納得のいく答えを見つけられたのだ。このシャルルが、マリナのよく知っているシャルルだ。無理して繕おうとしない、これが今の本当のシャルル。
 大体、疲れていないはずがないのだ。途中で予定を変更させて来ることは、マリナが考えるより遥かにシャルルの体にダメージを与えているだろうから。
 ――ほら、ジルの思い過ごしよ。
 こんな大変な思いまでしてシャルルが帰ってくる原因が、あたしな訳ないじゃない。
 やっぱり何か、向こうで大変なことが起こったのよ。だから、一度、戻って来なければならなかったんだわ。
 マリナは力を得た気がして、前屈みになりながらシャルルに問いかけた。
「それは、何?」
 それまでの雰囲気から、マリナはその答えを聞けると思っていた。けれど、シャルルは、マリナの中から自分にとっては好ましくない類の感情の破片を見てしまった。その瞬間、シャルルはやるせない思いと共に、緩めていた感情の帯をぐっと引き締めてしまった。
「……残念だけど、教える気はないよ」
 ゆっくりと重そうに頭をもたげ、頑なな意志を宿した瞳で、真っ直ぐマリナを見て言った。
「誰にもね」
 すっと顔色を変えたマリナの顔見て、シャルルは自嘲気味に微笑んだ。立ち上がり、マリナの後ろを通り過ぎる様、彼女の頭に手を置く。硬くて艶やかな髪の質感を手のひらに残して、一歩また一歩とシャルルは歩を進めた。すると、そんな彼を追いかけるように、マリナの声が上がった。
「バカ」
 それでもシャルルの足を止めることは出来ないと悟ったのか、彼女の声は次第に大きくなり、言葉を積み重ねっていった。
「シャルルの馬鹿! 何ひとりで気取ってんのよ。言いたいことがあるなら、いつものようにズバズバ言えばいいじゃない。肝心な時に何も言わないなんて、卑怯よ。あんた、何のためにここに戻って来たのよ。何か言いたくて帰って来たんじゃないの? 聞いて欲しくて帰って来たんじゃないの? ――ちょっと、シャルル、ちゃんと聞いてるの!?」
 マリナがようやくシャルルの腕を捕らえたのは、扉が目の前に迫った頃だった。もう少し遅ければ、シャルルはそのまま出て行ってしまっていただろう。わずかに荒くなった呼吸を整えようとしながら、マリナはシャルルを見上げた。がっちりした肩の向こうから、青灰色の視線がマリナを見下ろす。
「放してくれ」
「いやっ。言ってくれるまで絶対に放さないから」
 まるで子供だ。
 目の前で拒絶されたのに、それでもなお食い下がろうとしている、幼い子供。
「マリナ、もう一度言う。放すんだ」
「あんたが話してくれたらね。……ねえ、シャルル、ひとりで抱え込んだって、ちっとも偉くなんかないわ。たまにはガス抜きしなきゃ。もしもそのことであんたの気持ちが塞いでしまうのだったらあたしは悲しいし、きっと後悔する。あのね、ジルが言ってたわ、あんたがすでに決定したことを曲げるなんてよっぽどのことだって」
「それとこれとは関係ない」
「関係ないことないわ! そんなに疲れた顔してるんだもの。話しなさいよ。仕事の愚痴ぐらい聞いてあげるわよ、あたしが。もちろん、お菓子を食べながらね。色々大変そうだもんねえ、あんたの仕事って。――あっ、ねえ、もしかして、何かあたしにも話せない理由でもっ」
「――あるよ。大ありだ。君に話せない理由ならたくさんある。それをわかってて言ってるの? 結構、意地悪だね、マリナちゃん」
 彼の言葉よりも早く、そしていつの間にか、彼女の言葉が終わるよりも先に、マリナは扉の横の壁に押しつけられていた。それでもシャルルの腕を掴んでいたことは立派と言うべきだろうか。





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