追い詰められた猫と噛まれそうになった鼠




 彼がマリナの背中に手を回し、こちらを指差しながら、彼女の耳に何か囁くのを、シャルルは黙って見ていた。その感情の名は、嫉妬と言ったか、それとも独占欲と言ったか。あるいはもっと他の感情か。今のシャルルには、その判別すら難しい。彼女が彼の言葉を受けてクスッと笑うのを見たら、自分が長い間留守にしていたことが悔やまれる。いつの間に、このふたりはこんなにも仲良くなったのだろう。
「やあ、シャルル、もうお帰りかい? 早かったんだね」
「まあね」
 わざと曖昧に答えて、シャルルは彼女を見ないようにした。
「ヤカシ・ミマ、あなたはいつまでここにいられる? 聞きたいことがあるんだ」
「次に君が帰って来られるまで――と言いたいところだけど、残念、オレはもう行かなくちゃ。じゃあね、マリナちゃん」
 ふたりのやり取りについていけなかったマリナは、しきりにシャルルと美馬を見比べては首を傾げている。美馬の滞在予定は、まだ1週間残っているはずだ。美馬本人もシャルルも、それを忘れたわけではないだろうに、そのやり取りは明らかにおかしかった。おまけに、シャルルは彼が視界からいなくなるまで一度も視線を外さなかったのだ。
「マリナ、君はお帰りなさいのキスもしてくれないの?」
 振り仰ぐと、首を傾げて切なそうにマリナを見ているシャルルの、青灰色の瞳と視線がぶつかった。肩からこぼれた白金の髪は、ゆっくりと風に踊っている。さっきまで美馬を見て挑戦的に輝いていた光は鳴りをひそめ、今ではその欠片も見当たらない。
「キスはいらないでしょ!」
 以前と全く変わらぬマリナの態度に、シャルルはふっと皮肉げに笑う。
「突然帰ってきたのに、君は驚かないんだね」
 もつれた髪を梳かしてやりながら、シャルルはマリナと微妙な距離を取る。そのままどちらかが後一歩でも動けば、相手の懐にはいるという距離だ。けれど、どちらも動こうとしない。マリナは苦笑いしながら、さっき転んじゃって、とシャルルとは反対側の髪を撫でつける。
「驚いて欲しかったなら、残念でした。あたしはもう、ジルから聞いて知ってたのよ!」
 腰に手を当て、マリナは偉そうに胸を反らせた。
 そうして、つい先日のことを思い出す。後悔すると前置きをして、ジルから聞かされたことを。ジルの話では、向こうでの仕事が終わるまで帰ってくる予定がなかったシャルルが、数日間だけこちらに帰ってくるというものだった。
「もちろん、すぐに向こうへと戻らなければいけませんけれど。でも、シャルルが一度決めたことを崩すことは、そうありません。マリナさん、彼が何故そうするのか、わかりますか? そうなった理由は? これは私の予想なのですが、原因はマリナさんなのではないかと……」
 その後に続く言葉は、マリナにとって、およそ信じがたいものだった。
「でも、すぐにまた戻っちゃうんでしょ。大変ね。――あっ、そうだ、シャルルお腹減ってない? もうすぐお昼だけど、もうどこかで食べちゃった? まだだったら、昼食までまだ時間があるから、お菓子でもどう?」
 矢継ぎ早に質問を重ねたマリナだったが、シャルルは一つ一つ丁寧に返答を返した。
「こっちに戻ってくる前に朝食を食べたきりだけれど、そんなにお腹は空いてないんだ。でも、マリナがせっかくお菓子を分けてくれようとしているのに、この機会を見逃す訳にはいかないね。是非いただいておこう」
「……ちょっと、それ、どういう意味よ」
 ぶうっと頬を膨らませたマリナは、シャルルの様子がどこかおかしいことに気付いていた。





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