追い詰められた猫と噛まれそうになった鼠




 時折優しく風が髪を撫でては、木立の間を通りすぎて行く。今日の空模様はなかなかの好天で、あたたかく差し延べられる陽の下で読書するのには最適な日だった。芝とクローバーが入り交じった庭には彼しかおらず、音といえば風が奏でる梢の囁きだけだったので、彼は微笑みながら、ひとりで贅沢な時間を過ごしていると感じることが出来た。
「きゃあぁあっ!」
 ――その叫び声が、聞こえるまでは。
 続いて、重い物が落ちる鈍い音がしたと思ったら、ゆっくりと、その塊が動き出して立ち上がろうとしている。肩口までだらりと下がったオフホワイトのセーターからは、体のラインに沿って赤と茶のチェック柄ブラウスが見えているが、本人はまるで気が付いていない。左手で腰をさすりながら足に力を入れて立ち上がりたいみたいだが、どうも上手く行かないらしい。
「何だか大変そうだね。オレでよかったら、手を貸そうか?」
 悪いと思いながらも、クスクスと笑いを止められずに声をかけると、彼女はハッとしたように腰をひねって振り返った。ばつが悪そうなその表情は、この1ヶ月というもの主がいない屋敷に喜び勇んで泊まり込んでいる女の子のものだった。
「コンニチハ、美馬さん」
 差し出した手に手を乗せながら、彼女は苦笑いを繰り返した。腰に手を回して何とか立たしてやり、土埃を払ってやる。
「あの、……ありがとう」
「どういたしまして。それより、どうして空から降ってきたの?」
 胸を反らせて天を仰ぐと、深緑の葉と葉の間から白い日差しが射し込んできて、彼の眼を細くさせた。彼女がうっとりと見惚れていると、ふっと視線を戻した彼と眼が合ってしまい、慌てた彼女はパッと眼をそらせる。わずかに赤くなった目元に、彼は気づかれないように微笑んだ。彼女は正直で可愛いと思う。
「それはっ、美馬さんが悪いんです。あたしが登っていた木の下にいきなり腰を下ろして読書を始めるんだもの!」
 下から睨み上げるように、彼女は彼を仰いだ。身長差を物ともしないで睨み付けてくるその眼差しは思ったよりも力強く、迷いがなくて真っ直ぐだった。その頬が紅潮していなければ、今よりもきっと倍の威力があったに違いない。
「で、降りれなくなって、足を滑らせて降ってきたってとこかな」
「……正解です」
 ずり落ちたセーターから見えていた肩が、小さくなった。それと悟られないように元に戻して、両肩を叩いてやる。髪だけはボサボサのままだったが、彼がそれを直してやる訳にはいかない。彼女の髪に触れていいのは、彼女を想っている他の誰かだ。その誰かが、直してやればいい。
「これからは、オレのことを気にしないで今みたいに注意して。いい? 君は女の子なんだから、顔に傷でも出来たら大問題だ。黙って落ちて、怪我をさせたなんてことになったら、オレ達はふたりでシャルルから逃げ回らなきゃ」
 彼は大袈裟に肩をすくませて首を引っ込めてみせると、チラリと彼女を見て、パチンと大きなウインクをひとつ。冗談めかしてやると、やっと彼女の顔がほころんだ。
「大丈夫。その時には、階段から滑り落ちたってことにするわ」
「シャルルが相手だと、すぐにバレるよ」
 その時、彼は、彼女の髪を直してやれる人物がこちらに向かって近付いてくるのを見た。一見、颯爽と歩いているように見える。真っ直ぐ前だけを見据えて、迷いがない歩み。鋭利な刃物そのもののように鋭く光る青灰色の眼は、しかし、彼女の肩に乗せられている彼の手に集中していた。
 さり気なさを装って、彼の片手が背中へと移動し、もう片手でその人物の到来を示す。彼女の耳に近付くため、少々腰を屈めて密接しなければならなかったが、警戒心がまるでない彼女はそれをあっさりと許している。
「ほら、噂をすれば影だ」





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