追い詰められた猫と噛まれそうになった鼠




「あら、そこにいるのは、ペピートではないですか?」
 ジルはワインレッドの絨毯の上に爪先を揃え、廊下の先を眺めてよく通る声で呼ばわった。ジルの目線の先にいた少年は、ジルの姿を認めると、静かに駆けてくる。彼の姉から話を耳にしたことが幾度かあったが、彼と会ったのはつい最近のことだ。
「そんなに慌てて、どうしたのですか?」
「慌てていましたか、僕」
「ええ、思わず呼び止めてしまうくらい」
 ジルがクスッと微笑むと、ペピートの顔も緩んだ。ペピートは、こんな綺麗で優しい人が姉ならよかったのに、といつも思う。さすがに、恋人になるには自分は幼いと素直にあきらめた。そんな憧れを抱いている人の友人がマリナであることは、ペピートには未だに納得できない事柄のひとつだ。けれど、一緒にいるふたりを見ると、何故かしっくりする。その理由をわかりかけている――ということに、ペピート本人は気付いていない。
「何かあったのですか?」
 ペピートは、たった今見てきたことを思いだし、言葉に詰まってしまった。
「……マリナの部屋に、男が」
 たったそれだけのことでと自分でも思うのだが、どうしたって驚きで動揺してしまう。あれだけの美人がどうしてマリナに迫っているのだろう。同意を求めるようにジルの顔を見れば、彼女は何か思案している様子で、手を顎にあてていた。
「不躾なことを聞いても良いですか? ……あなたにそっくりな姉妹はいますか?」
 よくよく思い出せば、彼とジルはとてもよく似ている。いや、彼女と言うべきだろうか。彼女は男のように振る舞いたい人間なのかもしれない。「オレ」と言ってみたり、胸を隠すことは、彼女がそうしたいからだ。あるいは胸がないのかも。とにかく、そう考えれば、全てが納得できる。
「残念ですが、私にそっくりな姉妹はいません。けれど、私にそっくりな兄弟がいますよ。ちょっと、マリナさんのところに寄って行きましょうか」
 そう言って、ジルはペピートが来た道を戻り始めた。ペピートはジルの後ろについて歩きながら、自分の馬鹿げた考えに頭を悩ませていた。思い込みが酷いにも、程がある。これだから自分はまだ子供だというのだ。
「だからっ、ジョンの言うことは大袈裟なんだって言ってるでしょ!」
「そいつはジョンじゃなくてジャックだ。ジョンは庭師」
「……どっちだって同じでしょ……」
「ジョンは気難しくて、愛称で呼ばれるのを嫌うんだ。一緒だと思うなら今度試してみたら?」
 ジルが扉を少し上げただけで、中の会話が後ろにいたペピートにも届く。もっと甘い会話を想像していたペピートは、しばらくの間、ふたりが何を言っているのかわからなかった。振り返ったジルが苦笑いをしてしまったほどに、変な顔をしていたみたいだ。
「ビックリしましたか? あのふたりはいつも言い合いをしているといってもいいくらいなんですよ。話は変わりますけれど、今日もマリナさんを誘いに来て下さったのでしょう?」
 頭の中で今起きていることを整理しながらジルの質問に頷き返すと、ジルはゆっくりと微笑んだ。けれど、その笑みは哀愁を帯びてペピートの眼を引く。
「ごめんなさい。ここ数日間、マリナさんはきっと一緒に遊びに行けません。代わりに、この家の当主に挨拶させますね」
 ジルが話している間にも、ペピートが変な顔をし続けている間にも、ふたりは言い争いを続けている。よく聞けばどうでもよいことをふたりは真剣に言い合っているので、ふざけているのではないかと思えるが、どうにもそういう雰囲気ではなさそうだ。いくらジルがノックをしても、中のふたりは全く気付いていない。
「……まあ」
 そっと扉を開けて中を覗いたジルは、驚きの声を上げ、再び扉を閉めた。
「挨拶は次回にさせますね。実は、マリナさんと一緒にいた方が当主なのですが、ふたり共どうやら取り込み中のようですから。お詫びといっては何ですが、今日は私と一緒にお茶でもしませんか?」
 ジルのその申し出に、ペピートはもちろん頷き返してよろこんだ。マリナと一緒にいた男があのミシェルではなく、当主のシャルルだということも、彼等が双子の兄弟なのだということも、ペピートはこの後知ることになる。
「ねえ、いい加減離れてよ」
「駄目だね。まだ言い足りないことが山ほどある」
 ペピートが最初に見たそのままの格好で、シャルルとマリナは言い合う。
「じゃあ、もっと手短に言って」
「手短にね…」
 そう言うと、シャルルは壁から手を放し、すぐ傍にあったマリナの頬を両手で包み込んだ。途端、眉を釣り上げていたマリナの表情が一変し、眼鏡の向こうで瞳が大きく開かれた。顔中が熱くなったことがシャルルにも伝わっていると思うと、マリナはもっと赤くなった。
「オレはいつもいつも、君のことを想っている。どこにいても、何をしていても、君のことを考えている。ああ、君は元気でいるだろうかとか、君がまた事件に巻き込まれてはないだろうかとか、誰かに喧嘩を売ってはいないだろうかとか、誰かに迷惑をかけてはいないだろうかとか」
「……つまり、何が言いたいの?」
 その言葉を待っていたかのように、シャルルは微笑む。
「つまり、悪いことは出来ないっていうことだよ、愛しいマリナちゃん」




ブログのキリ番リクエストの話。
以後、登場することになるオリジナルキャラ・ペピート君がここで登場します。
お姉さんのマドレーヌの初登場は『「私のものになって」?』(「寄り道」)です。
そして、美馬さんのファンじゃないと言いつつ、ここでもまた彼が登場(笑)。
シャルルが嫉妬する場面までは、彼等とマリナの仲の良さでお楽しみ下さるといいと思います。はい。

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