追い詰められた猫と噛まれそうになった鼠




 彼が重い扉の向こうで笑んでいることを予感する。それがシャルルの心を余計に陰鬱にさせた。
 一層のこと、このまま彼を拒みたい思いだったが、それは彼を遠ざけると同時に、さらなる嫌がらせを招くことにも繋がりかねない。諦めの息をつくと、承諾の返事をして彼を中へと通す。カルテから眼を上げずに彼の動きを追っていると、早速、ソファに座った彼から口を開いてきた。と同時に、煙草の匂いが室内に漂う。
「もう少し訪ねてきた客に興味を持って欲しいな、お兄様」
 相変わらず、癇に障る物言いをする。
「ならば、もう少し他への配慮を願いたい。ここは禁煙だ」
「それは知らなかった。オレの兄は禁煙家でしたか」
「――何の用だ?」
 その後に続く皮肉をさえぎって、シャルルは声を上げた。
 苛立った様子を隠しきれなかったのは、彼の態度や言葉遣い、全てがシャルルの神経に障るものばかりだったからだろう。そしてそれは、彼の思惑通り。その証拠に、ミシェルは優雅な笑みを浮かべ、優越感に浸った眼差しでシャルルのことを見ている。
 そうなる理由など、ここに来る前からミシェルは知っているようだった。いつも完璧とも言える冷たい仮面を解かしてしまう、その火元を。その熱を。でなければ、どうしてこんな所にまでミシェルが来るだろう。無駄足を踏まないようにするのが、彼のやり方だ。
「落ち着いて、座って聞いて欲しいな。出来れば、その怒りはオレに向けないで。……オレはね、お兄様、あなたをこんなふうに怒らせるために来たんじゃないんだ」
 大袈裟に頭を振って、白金の髪をきらめかせる。
 わざとらしい小芝居にシャルルはうんざりして、再びカルテの方に視線を落とした。けれどミシェルは気にすることなく、ソファの背に回り込み、そこに座り込みながら話を続けている。紫煙をふうっと吐きながら、斜めにシャルルを見やる。その青灰色の眼を細めて。
「本当はもう、察しがついてるんじゃないか、シャルル。オレがここに来た理由を」
 無言を決め込むシャルルに、ミシェルはその意味を勝手に解釈して面白がっているような声色で言う。言葉を返さないことも承知の上だとでも言うように。
 考えないようにしているなんて、らしくないとも思わないのか。
「――その通り。オレがここに来た理由はただひとつ」
 言葉を切ると、ミシェルはゆっくりとシャルルの前に歩み寄り、机の上に手を乗せて、体重を前にかけた。目の前にある同じ顔が怪訝そうに彼を見上げる。シャルルの向こう側に彼女を見、彼女の言葉を思い出す。その糸を手繰り寄せれば、彼女の隣にいた男を思い出す。
 後は、この男に絡み取らせればいいだけ。
「忠告しに来たんだよ、お兄様」
 低い声で、歌うように彼が言えば、シャルルはますます顔をしかめる。
 一体いつまでそうやっているつもりだろうかと腹を立てていることに、ミシェルは気付かない。邪魔なものを排除するのに、彼を追い詰めることに、気を取られていると感じる。鏡に写る自分もこんな顔をしているのだろうかと思えば、この表情を崩してやりたいと思う。
「もうお気付きなんだろ。メイドがあちこちで噂している。でも、噂なんかじゃない。オレは見たよ、彼女が彼とデートしているところを。とても仲が良さそうだった」
 とても、というところにアクセントを付けて、ミシェルの一方的な忠告は終わった。
 吸い殻が盛られた灰皿に、ミシェルが先程まで吸っていた煙草の火を押しつけて消すと、ゆらりと細く上がっていた煙がすうっと宙に溶けたが、ふたりはそれを見ていなかった。





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