――最近、不愉快な噂が耳に入る。


「聞いた? あの話。マリナ様が…」
「もちろんっ、聞いたわよ。……でも、私も一度ふたりをお見かけしたけれど、とてもお似合いだったわ」
 答えて、彼女は声音を落として少しばかり俯きながら言う。
「やだっ、マリナ様があちらに行かれたら、どうしよう!?」
「そりゃあ決まってるでしょ。私達は毎日恨みながら過ごすのよ!」
 ショートヘアの女が、彼女達を斜めに見回しながらモップを持つ手に力を込めた。
「……一体、誰を恨みながら過ごすのよ」
 マリナが去っていくことを恐れる彼女達の眼を一身に集めると、女は体を前に倒して、彼女達だけに聞こえるような声で囁く。
「勿論、こうなる前に早くマリナ様を押し倒してしまわなかった、シャルル様を、よ」
 冗談とも、本気ともつかない声で。


――まったく、忌々しい。



追い詰められた猫と噛まれそうになった鼠




「ペピート! もうちょっとゆっくり歩けない!?」
 日本からやって来たという女が、顔を赤くしながら息を切らして言う。
 ペピートは足を止めて、ずいぶん距離が開いてしまったマリナとの距離を眺め、短い溜息をついた。どうしてこいつは、こんなにも遅いんだろう……。
 蜂蜜色に輝く自分の髪を眼の端に写し、ペピートはどんよりと曇っている空を見上げた。
 ――僕は、一体何をしているんだろう?
 彼女のことを頼むと言われたのは、つい1ヶ月前の話だ。パリに滞在していながら驚くほど街について知らない彼女の案内をまかせられてからというもの、彼は幾度となくそう思った。本当は、彼女を案内するためだけに姉に会いに来たのではないのにと、苛立ちを抑えきれない。それが八つ当たりだという自覚は、あるつもりだった。
「はあ、やっと追いついたわ。ペピート、あんた、そんなんじゃこれから先、女の子からデートのお誘いが来なくなるわよ」
 ペピートは、深い溜息をつく。
「あんたには言われたくないな」
「まあ、失礼ねっ。あたしにだって、デートのお誘いくらい……」
 そこで、マリナの言葉が止まってしまった。
 不思議に思ったペピートは、マリナの目線を追って振り向いた。するとそこに、幻でも見ているのではないかと、自分の眼を疑いたくなる程美しいひとりの人間がこちらに向かって歩み寄ってくるところだった。肩から流れるやわらかい白金の髪が風に仰がれてふわりと空中に舞う。それなのに、両手は細身の黒いパンツのポケットに入れられ、髪が遊ぶのを止めたりはしないのだ。まるで自分の髪が乱れるとは思っていないようだ。交互に足を出しているだけなのに、ペピートにはその動きがとても優雅に見えた。
 よく注意してみれば、纏っている空気そのものが違っていることにも気付いたはずだろう。それが出来なかったのは、その人物が彼等に笑いかけたからだった。その途端、急に体中の血液が勢いよく回り始めたような気がした。息を呑むのが、自分でもわかった。
「――やあ、マリナちゃん。今の話、ホント?」
 ペピートはその人物が話し出すまで、男女の区別が付かなかったが、今ようやくわかった。マリナに親しげに話してくるこの人物は、男だ。しかも、飛び切りの美人の。
「ちょっと、脅かさないでよミシェル。シャルルかと思っちゃったじゃない」
 はあっと長い溜息をついたマリナは、彼にひとしきりの文句を言うと、肩を落とした。心の底からホッとした様子に、ペピートは疑問を抱く。けれど、悩んでいるペピートを放って、ふたりの会話は続けられた。
「脅かそうとしたつもりはないけどね。もうそろそろ、見分けられる眼を持ってみたら? もちろん、オレはその上を行くだろうけれど」
「ええ、そうでしょうね。あんたならやってのけそうで恐いわ。あのねミシェル、あたし、ずっと思ってたんだけど、あんた、シャルルの格好を真似するの止めなさいよ。紛らわしいったらないのよ」
「心外だな。あいつがオレの真似をしてるのさ」
 ミシェルはニッと笑ってマリナを見返した。嘲るような眼差しに、ペピートはゴクリと唾を飲み込む。その眼差しを直接受けたわけでもないのに、心臓が縮小してしまった程の威力だった。
 それでも彼の隣にいる彼女は気後れすることもなく、ミシェルという得体の知れない男に食ってかかる。
「だったら、なおさらミシェルらしさを出せばいいと思うのよ」
 そう言って彼の後ろに回り込み、髪をひとつに束ねるように握る。
「ほら、これだけでもずいぶん違うじゃない? シャルルと同じ格好する必要なんてないわよ」
 ミシェルはにこにこと笑う彼女の腕を優しく握って自分の髪から外すと、はぐらかすような笑みをつくって、不意にペピートの方へと視線を流した。
「おい、おまえっ!」
 それはペピートに話しかけられたからだが、その時にはもう、先程まで覗かせていた優しさも切なさもなく、ただ射るような視線のみだけがあった。青灰色の瞳が深みを増して、ペピートを舐めるように見る。
「ところでマリナちゃん、この間抜けな顔をしたこいつ、君の知り合いかい?」
 興味のなさそうな声でマリナに問い掛けられると、ペピートはムッとして彼を睨み付けた。そんなふたりの様子に気付いたマリナは、慌ててそれぞれを紹介してその場を取り繕おうとしたのだが、マリナの言葉を遮るように、ペピートは乱暴に口を開く。
「誰が間抜け顔だって? ああ、あんたのことか」
 けれどミシェルは、彼はどうやら鏡を見たことがないらしい、などとマリナに向かって言い、ペピートを全く相手にしない。結局、彼女の努力は不完全に終わってしまったのだった。





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