月のない夜に、灯を。



<前半>

 やわらかな照明の橙がグラスに落ちる。
 天井に不思議な模様が浮かび、仄暗い闇に溶けていく。
 なめらかなグラスの曲線にそって、光が滑り落ちる。クルリと中の液体を混ぜれば、琥珀に似たきらめきが甘い果実のような香りを広げた。誘われるように、冷たいグラスへと口付ける。何の抵抗もなくスルっと落ちて行く液体は、最後に心地よい気だるさを残して消えていった。
 それは、祝福の酒……だったもの。
 本来それを飲むべき人間は、今、この場にはいない。
 出来ればふたりで飲みたいという気持ちもあったけれど、それはマリナの個人的な願望だということは充分承知していたので、せめて彼に一杯……いや、ひと口だけでも飲んで欲しかったと、振られてしまった今でもそう思っている。ほんの少しでも、祝福を受けて欲しかった。
 これではいつもの酒と変わらないんじゃないかと、ふと我に返る。
 むかつく。
「誕生日、おめでと――う!!」
 叫びながら、マリナは再びグラスを傾けた。飲み込んで行く度に、頭の中の琥珀色の霧が濃くなっていくのが分かる。甘いにおいが張り詰めていた心をやわらかくする。
 美味しい……けれど、味気ない。ツマラナイ。
 祝福の気持ちさえ伝えられない、伝わらない、届かないなんてことがあるだろうか――いや、あった。最初から全部そうだった。「君に用があっても、私にはない。帰れ」と、話さえ聞いてくれなかった。それは今も、変わらない。ことあるごとに「日本に帰れ」と言ってくる。
 受け入れてもらえないのは、再会した時から分かっているから、それはそれでいい。無理強いはしない。ただ、祝福の言葉くらいは、言いたかった。彼が自分を祝う気持ちがないことが分かっていたから、なおさら。誰かひとりでも彼を祝ってやる人物がいてもいいじゃないか。そう思って、マリナは大きな声で、祝うつもりだった。触れればすぐに融けて消えてしまう粉雪のような言葉だったとしても。
 けれど、結局、言わせてももらえず、問答無用で帰宅させられた。

 自分の気持ちが、彼にとって無意味なものなんじゃないだろうかと、考えてしまうことが辛い。
 それは、月のない夜の中にあって、なお暗い影の中へ足を踏み入れる感覚に似ていた。



 不自然な声音で、不自然な表情で、不自然な態度で、一緒に飲まないかと誘われたのを断ったのは、何時だったか。
 それから資料を整理してシャワーを浴び、一息ついたところで、何故だかそんなことを思い出した。
 実は気になっていた――という訳ではない。彼女のこれまでの言動を考えてみると、二通りの行動が考えられたからだ。ひとつは、普段と同じくそのまま諦めるパターン。もうひとつは、彼女の恐ろしいまでの行動力で押し掛けてくるパターン。その後者の可能性が、シャルルの頭を過ったからだ。彼女なら、あり得た。
 誕生日だから何だというんだ、とシャルルは思う。自分で自分を祝うような浮かれた気持など持ち合わせていないし、たかが1年ごとの誕生日をその度に祝われてもありがたくもない。そんな大袈裟なものはいらない。不必要だとも思う。誕生を祝うのはせいぜい10代前半までだ。それまでは保護者の庇護の元、あらゆる力と、健やかな心と体を作り育てる時期だ。誕生日は、そこまで無事に育ったことを祝う行事だと認識している。それを過ぎたなら、後は己の力で生きて行く時だ。誕生に感謝こそすれ、祝うことまではしない。――少なくとも、シャルルはそんなふうに考えている。
 だのに、彼女はシャルルの考えなどまるで無視をして、それを行動に移す。それも大袈裟なほどに。……憂鬱にもなるだろう。

 どうしても祝いたいなら、同じ誕生日を持つ、私以外の誰かを祝ってやれ。
 シャルルは終始一貫、そう思っていたのだった。



「シャルル、まだ起きてるよね。入るよ」
 週末の仕事先へは誰も訪れてこない。来るとしたらマリナだと思っていたシャルルの予想を裏切って、ひょっこりとドアから顔を見せたのは、どんなに冷たくあしらってもめげずに近付いてくる人物、ロジェだった。いつも綺麗に整えている彼のウエーブがかった栗色の髪が、今では何故か乱れている。手で整えた跡が見られるが、それでも髪が絡まりあって横に広がっている。許可する前に実行に移るあたりはいつものことだったが、今日はどことなく余裕がないようだ。
「勝手に入って来るなと何度言ったら分かるんだ」
 これではプライベートがあってないようなものだと、鍵を取り付けようかシャルルが真剣に思案していると、その間にロジェがつかつかと目の前まで近付いて来ていて、両手を勢いよく机の上に打ち付けた。ビリビリと空気を震わせる。
 どうしてこう、誰も彼も、自分の周りには感情的な人間が多いのだ――というようにシャルルが眉をひそめると、ロジェが目線を合わせるように体勢を低くし、ドアの方を指さして言った。いつになく剣呑な眼をしている。
「彼女を、何とかしてくれ!」
「痴話喧嘩なら管轄外だが?」
 シャルルは表情ひとつ動かさずに言った。
 誰とも何とも言わなかった。まるで関心がないとでもいうように。
 その言葉に、その態度に、ロジェは苛立った。一方的な痴話喧嘩というものが成り立つなら、原因はまず間違いなくシャルルにあるんじゃないかと思った。彼女を遠ざけようとする、その露骨な態度が。そう指摘してやりたかったが、命が惜しい。ロジェは、あえて言わなかった。
「ち、が、うっ! 分かってるだろ!!」
 その代り、机をドンドン叩いて抗議すると、シャルルはようやく紙の束から顔を上げた。何か聞く前からうんざりした顔をしている。
「マリナが何か?」
 そんなシャルルにお構いなしに、ロジェは自分がいかに酷い目にあったかを語って聞かせた。
「……突然呼び出されて、何かと思ったら彼女さ。事情を聞こうにも、彼女は酔っていて話にならない。フラフラしてたから背負って僕の研究室まで運んでやったら、これだよっ!」
 何でも、マリナは突然、後ろから髪を掴み、「何でシャルルがいないのよ、シャルルを連れて来い!」と暴れ、滅茶苦茶な行動に出たらしい。しかも、ロジェの前にも数人に迷惑がかかっているというから、酔っ払いほど迷惑な存在はないなと、シャルルは思う。
 フランス語が理解できないマリナと、フランス語しか理解できない警備員と、複数の言語を操れる、人好きのするロジェ。……残念だが、ロジェには不運だったとしか言いようがない。
「で、君は私にどうしろというんだ? マリナを追い出せばいいのか、それとも、明日の昼まで起きないよう睡眠薬を処方すればいいのか?」
「シャルル、一応聞くけどさ、どうして明日の昼までなんだ?」
「朝からあんなうるさい奴の声を聞かずにすむだろう」
「…………」
 自分自身がそうだと言われた訳でもないのに、ロジェはひどく落ち込んだ顔をしながら項垂れた。それから力なく顔を上げ、シャルルに向かって心の中でそっと悪態を吐いた。ささやかな悪態だ。彼に比べれば、ずっとずっと可愛い。思わず、マリナにされたことを忘れ、同情してしまいそうになるほど。
「とにかく、何とかしてくれ」
 心で思っていることと、口から出た言葉では、どちらがより本音に近いのだろう。
 大人になれば、色んな言葉と感情をもっと知れば、自分の気持ちや相手の気持ちを理解することが出来ると思っていた。けれど、心底嫌そうな溜息をついて重い腰を上げたこのエゴイストな彼の心は、いくら考えてもさっぱり分からない。
 人間の心は複雑だと、ロジェは思った。





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