絵画とモデル



 生徒が夏休みだからといって、教師に休みはない。
 部活顧問は朝から通常出勤しているし、研修もある。運動部顧問は合宿にも行っている。夕方には街へ出て行って、羽目を外した生徒が周囲に迷惑をかけていないか、あるいは危険な目に遭っていないか、見回ることもする。
 自由だと、長い休暇を謳歌するのは学生の特権だが、宿題や課題を忘れて、夏休みを持て余しているのも事実ではないだろうか。
 ――いや、違った。学生だけではなかった。ここにもひとり、暇を持て余している教師がいた。
「ちょっと、シャルル先生、長い溜息をこれ見よがしにつかないでください!」
「でしたら、溜息をつかせるようなことをしないでください、マリナ先生」
 窓からの熱射を避けるように、部屋の陰でスケッチブックを広げている。わざわざデスケルまで持って来たと思っていたら、彼女がそれを振って扇ぎ始めた時には、半分呆れ、半分納得した。まあ、なんとも、彼女らしい。
 ……何故、“らしい”と感じるほど、彼女のことを知るようになったのだろう。誰に対しても、必要以上に近付いて来られないように距離を置いていたのに。
 ああ、そうだ、彼女が飛び越えて来たんだ。まるで、隣の家に砂糖でも借りるような気軽さで。それから居座られて、騒ぐだけ騒いで、変な噂を残して去って行くんだ。
「右手でデッサンしながら左手で扇ぐなんて、器用ですね。気になるから止めてもらえませんか」
「毎日デッサンしてると、これぐらいチョロイもんよ。あ、もしかして、うるさかった?」
 正直、うるさかった。この蒸し暑さと、肌に張り付くようなぬるい空気、ワンワンと響く、永遠に続くんじゃないかと思うほどの蝉時雨、もう何もかもにウンザリしていた。イライラして、顕微鏡に集中できやしない。
「……そんな睨まなくっても。ああ、ほら、扇ぎますから、これで許してください。ねっ!?」
 そう言って彼女はポケットから青緑色の扇子を取り出して、ふんわりと扇ぎ始めた。何故始めからそれを使わないのかと言いかけて、ふっと香って来たペパーミントの匂いに気を取られた。それは間違いなく彼女の方から漂ってくる。『こういう涼風のことを“極楽の余風”っていうんだってさ』という和矢先生の言葉を思い出した。彼女から送られてくる風は、存外、とても心地よかった。
「あたし、シャルル先生がそうやって実験してる姿、好きなんですよね」
「だから人をデッサンしてるのか」
「そうですよ。好きだと思ったり、美しいと思ったものを、あたしは描きますから!」
 にっこりという言葉がピッタリなほどの笑みを浮かべて、彼女は晴れやかに言い放った。
 私は、溜息ひとつつき、好きにすればいい、と、そう思った。






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