先生と生徒



 コンクリートの壁が、窓から射す夕日によって紅く染まる。定時を知らせるチャイムが先程流れたばかりだったが、まだまだ帰る様子のない子供達の楽しそうな声が校内に響き渡っているのはいつものことだった。シャルルにとってはとうの昔に過ぎ去ったその時代を懐かしむ気持ちはなかったが、特に帰宅を急かしたりもしなかった。
「もうやることは済ませてあるんでしたら、お帰りになったらいかがです?」
 けれど、自分の部活を早々に切り上げさせてやってきた同僚に、彼は呆れたような眼差しと共に、早く帰るよう、帰宅を促した。取り寄せた興味深い研究レポートを、誰にも邪魔をされずにゆっくりと読み耽りたかったのだ。
「あたしは、早く帰るために片付けをしたんじゃありません! シャルル先生に体のことについて教わりに来たって言ってるでしょう。約束したじゃありませんかっ」
 焦れたように声音を上げたマリナは、素描に並々ならぬ意欲を燃やす美術教師である。
 その内、ダ・ヴィンチのように自分も解剖もしてみたいと言い出すのではないだろうかと、シャルルは頭の隅で冷静に思った。
「……全く。体の、何について教わりたいんですか? ヒトの成り立ちですか、各器官についてですか、それとも繁殖についてですか。何でもいいですよ、手取り足取りお教えして差し上げましょう。覚悟は出来ているんでしょうね、マリナ先生?」
 嘘っぽい、口元だけが優しげに見える笑みを浮かべて、シャルルはマリナを振り返った。振り返った先には、明らかに恐怖に似た表情を浮かべて一歩後ろに下がった彼女がいた。笑顔も引き攣っていて、上手く笑えていない。
「あ……やっぱり……あたし、体育のカーク先生に教わりに行こうかなー、なんて……」
「カーク先生が可哀想だから止めて下さい。シャワールームを使う生徒にも迷惑がかかります」
 ピシャリとマリナの言葉を切って捨て、シャルルは溜息をついた。ついこの間の出来事のように思い出される過去の話を、シャルルは今でもとても鮮明に覚えている。彼女が忘れてしまった小さなことまで詳細に。あれは思い出として笑って話せるようになるまで、まだ当分時間がいる類の話だ。彼の心の傷が癒えぬ内に、更に傷を増やしてどうしようというのか。
「わかりました。じゃあ、シャルル先生、ふつーに教えて下さい。普通に」
 念を押すように、マリナが言う。
「それは構いませんが、どうか教わる方も生徒として生徒らしく教わって下さい。スケールを握りしめて凝視するのは、生徒のすることじゃありません!」

 ――シャルルは顔を背けるようにして、鏡が映し出す自身の姿を彼女に見せたのだった。






next



inserted by FC2 system