主人と執事



 茶色の髪にゆっくりと櫛を入れる。絡まった髪を丁寧に解いて、その小さな背に流す。すっかり梳いてしまったら、次はその髪をひと房横に持ってきて、紅梅の色に染められたリボンで結ぶ。このリボンを解く役目も自分にあればと願って、彼女に気付かれないよう、そっとリボンの端にキスを落とした。
 彼女は今、昨夜私が選んだ洋服を着て、椅子に腰掛けている。わずかに緊張した表情をして、小さな手でレースを弄っている。目線は床に落とされ、茶色の瞳に影が落ちていたが、それでも彼女が憂えている様子はない。
 ただ、慣れない状況に戸惑っている。
 そんな感情が読み取れたから、クスリと笑みを漏らしてしまう。
「さあ、支度が出来ましたよ、お嬢様」
 そんな気を紛らわせるように笑んで見せ、椅子を引く。立ち上がった彼女はホッとしたように息をつき、そそくさと私から離れて行こうとする。その背中を追い掛けて行くと、くるりと振り返った彼女に冷たくあしらわれた。そんなかわいい顔をしても、これが私の仕事なのだから仕様がない。それでも私がついて行くとようやく彼女もあきらめたように溜息をこぼして、歩く速度を落とした。
 ひらりひらりと、スカートが歩く度に揺れる。やわらかなフォルムは彼女が歩くことによって生かされる。高い位置に閉めたベルトは苦しくないだろうかと心配したが、その必要はないようだ。リボンも舞うように揺れ、ついその軽い動きを眼で追ってしまう。
 最近の彼女がいつも何をして過ごしているのか心得ていたので、彼女がベンチに座ると同時にその本を取り上げた。英語でさえ不自由しているというのに、単語だけで本の内容を理解しようとするのは至難の業だろう。
「私がお読みいたしましょう」
 そう言うと彼女は渋い顔をしたが、それでも一歩も引かないとわかると渋々了承してくれた。
「『Den Lille Havfrue』……人魚姫ですね。お仕事で?」
 もちろん、知っている。彼女が漫画ではなくとも、仕事としてイラストを頼まれたのだということは。けれど、それを彼女の口から聞きたかったのだ。少し照れたように頷く彼女。それから、誰かに聞かせたくてたまらないというように前屈みになって話し出す。とてもうれしそうに。
 ――そうして私は、ようやく物語を話し始める。
 人魚の末姫と人間の王子の恋物語を。
 彼女が描写の素晴らしいこの話を聞いて、どんな世界をその心に思い描くのだろう。
 そっと、仕えさせてもらっている主を見る。彼女は真剣な眼差しでじっとこちらを見ていた。
 ゆっくりと、自分の口元が緩んで行くのがわかったが、止められそうにない。
 ああ、出来るなら、彼女の絵が見らるようになった時には、執事ではなくひとりの男として、直接彼女に感想を伝えたい。




back  next



inserted by FC2 system