Summer vacation




 マリナさんの変調を、シャルル様が知らないはずはありません。
 常にマリナさんのことを気に駆けているのですから、どこからか、噂を耳にしているでしょう。けれど、マリナさんがシャルル様を避けているのを知っているのか、このお休みでパリを離れる時まで、シャルル様はマリナさんの前に現れたりは致しませんでした。
 それから3日間、マリナさんとペピートは私の心配も必要ないほどに元気に遊び回りました。街に出てあちこちのお店を眺め、市場に寄っては新鮮な果物や野菜、魚などをお土産にして帰って来たり。海辺に出掛けて海岸沿いを散歩して帰ってくること、毎日。とにかく、休憩時間という自由時間があれば、マリナさんは出掛けて行きます。
「ねえ、マドレーヌ、そろそろ気付く頃よね」
「きっと慌ててるわよ」
「ジルに内緒にしてもらってるの。だから、もし、探してるんだったら、今頃大変よ」
 口紅の代わりに赤い絵の具で伝言を残してきたというマリナさんは、この出来事を面白そうにお話ししました。まるで、悪戯してきたことを楽しんでいるような。そして、それがばれるのを今か今かと待っているような。
 ――けれど、いつまで経っても、シャルル様からの連絡はありません。
 マリナさんは何も言いません。
 その次の日も、そのまた次の日も、マリナさんは街に出掛けて行きました。
 いつものように。
 白いブラウスの襟と、紺色のワンピースの裾をひるがえしながら。
 シャルル様は相変わらず音信不通のまま。
 マリナさんの鞄から仕事道具が消え、窓際の机に置かれたのは、1週間が経った頃でした。


『……そうですか、描き始めたんですね』
 電話越しに伝わってきたのは、心からの安堵でした。
 まだ試行錯誤しているみたいですけれど、と付け加えると、ジル様はクスリと笑って、それでもやっぱりうれしそうでした。けれど私は、シャルル様のことを聞けずに、その日の電話も切ってしまったのです。
 この事をマリナさんにお話ししたら、マリナさんは私を責めるでしょうか……?


「おいしぃ〜!! このパイ、すっごくおいしい!」
 フォークをしっかりと握りながら、頬を緩ませて笑うマリナさんを見ていると、こちらまで幸せな気持ちになります。口の端にパイがついていても、微笑ましく思えてくるから不思議です。
「いいなあ、マリナ。オレのはないの?」
 こちらも休憩時間に入り、自室から出てきたペピートが目聡くパイを見つけるとそう言いました。ペピートも頭を使うのか、甘いものが欲しいのでしょう。食器棚からお皿を取り出しに行くと、後の方でマリナさんとペピートのお話が聞こえてきました。
「ここに来た時は、こんなお菓子出て来たことなかったよな。どうして最近になってこんなお菓子が出て来たんだろ?」
「いいじゃないの、そんな細かいことは気にしない、気にしない!」
「ああ、マリナは、質より量の方が問題だもんな」
「なによ、文句があるなら、分けてやんないわよっ」
「はい、マリナさんレモネードはいかがですか? ほら、ペピート、あんたのはキッチンにあるから自分でとってきなさい」
 喧嘩になりそうなふたりの間に私が割って入り、ふたりの気をそらせます。きっと、お菓子を贈ってくるあの方も、こんなことで喧嘩騒ぎになるのだとは、思いもしないことでしょう。
 私はグラスにレモネードを注ぎながら、窓の外を眺めました。日本の空よりも鮮やかな青い空と緑が、窓枠で切り取られているみたいでした。
「こちらに来てから、お仕事の調子が良さそうなので、安心しました」
 そう言うと、マリナさんはパイを頬張りながら、うれしそうに笑って、軽く頷き返してくれます。
「ここにいると、何か落ち着くっていうか、懐かしい気持ちになるのよね」
 それは、マリナさんの中にある日本を思う心がそうさせるのかもしれません。ここには、日本でよく見かけた庭木を植えていたり、檜や杉などの木材を使用した家具を使っているから懐かしくなるのだと私は思いました。
「朝、ふっと目が覚めてカーテンを開けると、そこには毎日素晴らしい景色が見えるの。あたしの部屋からは街も少しだけ見えるんだけど、毎朝、早くそこに行きたくてウズウズするのよ。あそこには優しい人達が大勢いて、いつも言葉の通じないあたしに笑いかけてくれる。ああ、ここには優しい人がいるんだって思ったら、まぶしい木洩れ日も優しい光りに見えるのよ。――で、今日も頑張ろうって思えるの」
 そう言って微笑むマリナさんを見た時、私はジル様の感じていた違和感に気付いたのです。そうして、確かに、屋敷にいた時のマリナさんの笑顔や元気が上辺だけのものだということを知ったのです。
「……マリナさんは、もう、お仕事が終わったんですか?」
 気づけなかった自分を恥ずかしく思いながら、私はそう問いかけました。
 今からでも、マリナさんに出来ることがあれば、何かやって差し上げたいと思ったのです。
「そうねえ。後もう少しってところね」
 だって、にっこりと笑うマリナさんの笑顔が、私はとても好きなんですから。





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