続・この月浮かぶ夜に、願いを。



 吐く息が白かった。
 凍ってしまうんじゃないかと思うほど、キンと張りつめた空気。
 赤いミトンを擦り合わせてみても、思うような熱は生まれてこなかった。
 いくら着込んでも無駄なことくらい、ハッキリとわかってしまうほど冷たい空気が纏わりつく。体と服の間にある空気を体温で温める間に、熱が空気に奪われてしまうのだ。
 音など、確かに響いているはずなのに、全く別の空間にいるかのように“聞こえない”。世界は、静かだった。
 その静かな世界は、月から黄金色の煌めきが地上に降り注いでいて、ほんのりと明るかった。それは、ゆったりと街を横切る河の水面に反射して、キラキラと鱗粉のような光を放ち、空に溶ける。冷たく遮られた世界は、それだけで完璧であり、完成していた。無駄なものなど一切ないそこは、とても美しかった。
 ハアっと、白い息を吐く。
 そうだ、この世界はシャルルそのもののようなのだ。
 頑ななまでに存在を拒否しているような冷たさも、美しさも、何もかも。


 ――だから今、目の前で怠そうな表情で眼を瞑る彼が、唇をわずかに開いて荒い呼吸を繰り返す彼が、不安を誘うのだ。均衡が崩れれば、その次に待っているのは崩壊だ。彼がそのままシーツに埋もれ、沈んでしまいそうな気がした。
 いつにも増して白い顔に、恐る恐る手を伸ばす。額は……少しだけ熱い。それから頬へ。
「何をしている」
 掴まれた腕の下から、覇気のない銀色の瞳がこちらを見上げていた。熱のせいで、少しだけ潤んで見える。話すだけでも辛そうな彼の様子に、あたしは慌てて謝った。
「ごめんね、あたしのせいで」
「その言葉はもういい。さっき、腐るほど聞いた。そんなことより、君は、今、何をしているのかと聞いたんだ。答えろ」
 いつもならば、一息で言ってしまうだろう言葉を、シャルルはゆっくりと、荒い呼吸のままに紡いだ。
「熱を測って」
「ここはどこだ?」
 あたしの言葉を最後まで聞かずに、シャルルは質問を変えた。
 それまであたしの腕を掴んでいた手が、冬の星を思わせる彼の両眼を覆い隠した。眼に入る光が眩しくて辛いのだろう。あたしは自由になった手で明かりを落としながら、そっとシャルルの様子を窺った。
「病人を研究所に置いて行く訳にもいかないから、皆にシャルルのアパルトマンはどこか聞いたんだけど、誰も知らなくて、あたしの部屋に運んでもらったのよ」
 朦朧としていながらも、まだ何とか意識があったシャルルに住所を聞いたけれど、「オレのことは放っておけ」だの、「君にだけは看病されたくない」などとわめくので、熱が上がってダウンするまで待ってから我が家にご招待したのだけれど、怒っているだろうなぁと、叱られる覚悟を決めた。
 だって、水道を壊したのも、部屋を水浸しにしたのも、薬品の瓶を割ったのも、そのせいで彼に風邪をひかせてしまったのも、全部、あたしが原因なのに、放っておける訳ないじゃない。
 ああ、もう、今日は最悪の日だわ。ツイてない。
 せっかく用意していたプレゼントも、渡すどころじゃなくなってしまったし……。
「…………れ」
「え、なに?」
 上手く聞き取ることが出来なくて、あたしはシャルルに顔を近付けて、もう一度とねだった。
「粥を作れと言ったんだっ……!」
 驚いて眼を見開いて彼を見ると、シャルルは苛立ちを隠そうともしないで、面倒臭そうに言葉を続けた。
「君は日本人だ。パンやパスタを食べてばかりいると、ライスが恋しくなるはずだ。したがって、君の家には、お米がある。粥ならば、君でも料理できる……簡単な……早く……薬を飲みたい…………」
 喋り続ける内に体力が尽きたのか、最後の方は会話にならず、シャルルは再び口を噤んだ。ぐったりと横になったその顔には倦怠感が生まれていて、熱を測ったあたしは、慌ててお粥を作りにキッチンへと向かったのだった。



 まだ食欲はないだろうと思って小さな器によそったお粥は、時間をかけてシャルルの体内に取り込まれた。咀嚼するのすら苦しそうな様子に、私はもう少しお水を足せばよかったと後悔した。もっとも、後に元気になったシャルルがうんざりしたように語ったところによると、「ベチャベチャで粥というより団子に近かった」らしい……。失礼ね、もうちょっとお粥らしさがあったわよ、意識が朦朧としてたから、記憶も霞みがかってるんじゃないのっ、ふん。
 薬を口に含み、水で呑み下すのを確認して、あたしはシャルルを再びシーツの住人に戻した。いつもだったら絶対に何らかの抵抗があるのだけれど、流石に今はその力がないみたいで、大人しく頭を枕に乗せてくれた。けれど、その代り、彼は、とんでもない我儘を言い始めたのだった。
「眠れない」
「薬の中に、睡眠導入剤入れなかったのっ!?」
「抗ヒスタミン薬は必要ない」
 よくわからない。
 ……ええっと、つまり、睡眠導入剤は処方しなかったってことよね、きっと。
「どうして?」
 あたしがそう聞くと、症状が随分楽になったのか、目覚めた時よりも穏やかな表情を見せながら、シャルルは質問に答えてくれた。
「意図しない睡眠に陥りたくない」
 まるで子供ね。
 ――という言葉を何とか呑み込んで、あたしは苦笑いしながらシャルルに言った。
「コンサルタント探偵みたいなこと言わないで、寝てちょうだい」
 上手く“苦笑い”が出来たかについては、あまり自信がない。でも、シャルルはもっと別のことに興味を持ったようだった。
「誰だって?」
「イギリスの名探偵よ」
 そう返すと、息ひとつで一蹴された。
「眠り過ぎるのも体にはよくないものなのだよ、ワトソン君」
「あなたには休息が必要なのよ、ホームズ。……病気の時は寝て、体を休ませないと駄目なことくらい、わかってるでしょ。――あっ、そうだ、じゃあ、本を読んで上げる。ベッドタイム・ストーリーよ。いいでしょ」
 この時のあたしは、どこか、浮かれていたのかもしれない。シャルルが熱を出しているというのに……。けれど、シャルルが大人しくあたしのアパルトマンにいて、あたしの作ったものを食べて、あたしの話を昔のように聞いてくれる、そんな状況がとんでもない奇跡のように思えて、あたしは自分の気持ちを抑えることが出来なかった。だから、シャルルが何か言っているのにも耳を貸さず、強引に話を進めた。だって、他に、思い付かなかったんだもの。
「『……敵の攻撃をたくみにかわしつつ……すんでのところでギュッともみ消した!』 ここで船長があの白い犬の尻尾を踏んでしまうの。 『キャイ〜〜ン!』 それでも船長の暴走した実演は止まらなくて、剣を振り回すのよ。こんな風にね」
「…………マリナ」
「大暴れした船長は、勢い余って壁にぶつかって、 『ガタン ズシン ガラガラ ガッチャーン』  例のご先祖様が描かれた絵画の顔の部分を破って、子孫の船長が顔を出すの。瓜二つの、同じ顔をね!」
「…………マリナ、眠れない」
 身振り手振りを交えながら音読をするあたしを、呆れた眼差しで見ていたシャルルが、再び体が求めるままに眠りに就こうとするのを最後まで見届けて、あたしは本を閉じた。
 天から光を投げ掛けているお月さまの姿を思い出しながら、瞼を閉じてそっと願った。
 彼がもう、熱にうなされずに眠れますように、と。
 そうね、どうせ見るなら、楽しい夢がいい。相棒と一緒に大冒険をして、謎を解き、最後はハッピー・エンドで終わるような、そんな夢。

 ――だって、次に眼を覚ました時、彼は、誕生日を迎えるんだもの。



<fin>



以下の作品の一部を引用させていただきました。
『なぞのユニコーン号』  エルジェ 作  川口恵子 訳




前回のマリナ誕生日話の続きなのですが、このお話だけでも楽しめますね。
あんまり絡ませていないので(絡ませられる部分がなかった)。
でも、マリナの前回の発言は果せられそうです。
曰く、「朝から晩まで祝って上げる」です。
シャルルが病気しなければ無理ですよね。
ということで、シャルルには風邪をひいてもらいました。

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