この月浮かぶ夜に、願いを。



 24時、リンと電話が鳴る。
 こんな夜中になんて世間知らずな……などと思ってはいけない。あたしの生活サイクルを知る人だったら、誰でも、この時間にかければ必ず出るだろうと知っているからかけてくるのだ。
 古いアパルトマンに響き渡る呼び出し音に、あたしはココアをひと口飲むと、愛用のマグカップを持ったまま電話機に向かった。途中で積み上げた本に足をぶつけて雪崩を引き起こし、床にココアをこぼしたけれど、それでもこちらが最優先だと慌てて電話に出た――ことは相手には言わなかったのに、すぐにバレた。そして、開口一番、こう言われたのだ。
「Happy Birthday!」
 また忘れてただろ、って笑われながら。


 まず言ってはくれないだろうって思いながら、午前中はずっと黙って仕事を手伝っていた。
 それでもなんとか黙っていようと頑張っていたけれど、どうにも我慢できなくなって、あたしは知らず知らずの内に、目の前の机を両手でバーンと叩いていた。
 あ、ちょっと、手が痛い……。
「うるさい」
 直後にシャルルから冷たい言葉をもらったけど、あたしが欲しいのはもっと違う言葉なのよ、シャルル!!
 キッと睨んでみたけれど、シャルルは全く顔を上げることなく、左手に資料、右手にペンを持ったまま、仕事に集中している。その顔には、全くもって隙がない。まるで濃藍色の空にぷっかり浮かんでいるお月さまみたいだ。鋭利で、淡く輝いていて、美しく、手が届きそうで届かない、孤高の存在。
「視線がうるさい。何か用があるなら口で言え」
 パラリと紙を移動させながら、シャルルが言った。シャープペンシルを挟む長い指先につい眼を奪われていると、「用がないなら仕事しろ」と、氷点下にまで下がった声音が突き刺さりそうになったので、あたしは慌てて口を開いた。
「今日、何の日か知ってる?」
「ダイナマイトを発明したアルフレッド・ノーベルがノーベル賞設立の元となる遺言状にサインした日」
 へぇ、そうなんだ。
 ……って、違うわよ。全然、ち、が、うっ!!
「そういうことじゃなくてね、もっとこう、特別な……」
「フランク王国初代国王クロヴィス1世が死去した日」
「…………そう」
 ……ダレよ、その人。知らないわ。
 そんな人がいつ亡くなったかなんて、どうでもいいのよ。何でそんな日が特別な日になるの。しかも、さっきから聞いてれば、誰かが亡くなる話ばっかりじゃない! わざとなの!?
 始めから素直に祝ってもらえるなんて思ってなかったけれど、こんな風に誤魔化されるのは堪らなかった。知らないフリより、もっと根本的な、なかったことにされているような気がして。でも、シャルルがそんな態度に出るのなら、あたしだって考えがあるわよ。
「ハッキリ言うわ。今日は、あたしの……」
 一言ずつ区切って、ゆっくり言葉を吐き出した。シャルルの青灰の眼がわずかにすがめられて、深さを増す。
「誕生日、よ!!」
 最後の一言を言い終えると、それまで黙っていた部屋にいるみんなが、手を叩いて、口々に祝いの言葉をかけてくれた。
「へえ、そうなの。おめでとう、マリナ」
「おめでとう」
「Bon Anniversaire!」
「オメデトウゴザイマス」
 あたしはみんなに愛想よく手を振って、お礼を言った。うれしい気持ちのまま振り返ると、みんなの笑顔とは対照的な顔のシャルルがいた。眉間に皺、とまではいかないけれど、眼は確実に半分まで閉じてしまっている。口角は下がり、人間らしい表情という表情は全て彼の一番奥深いところに仕舞われてしまったみたいだった。ただ眼だけが雄弁に心情を表して、鈍色に暗く輝いていた。
「休みが欲しいなら、休んでも構わないぞ」
「……仕事、します……」
 シャルルのその眼が、「仕事をしないなら出て行け」と、簡単な言葉にするとそういう意味になる威圧を持って、あたしの意気地を挫いた。
 たったひと言、その口から祝いの言葉を聞こうとしただけだったのに。
 でも、あたしだってこれくらいでめげる程ヤワじゃないから、物分かりのいい部下の顔をして、元の席に戻って仕事を開始しながら、大きな独り言をつぶやいてみた。シャルルは、仕事さえしていれば、後は割と自由だ。それを踏まえた上でのあたしの言葉は、部屋にいたみんなの笑いを誘ったけれど、それだってみんなの邪魔をしなければオッケーなのだ。
「あたしだってもういい歳だし、誕生日プレゼントが欲しいとか、ケーキが欲しいとか、デートして欲しいとか……そりゃあ、もらったら嬉しいし……本当はデートしたいけど……でも、それ以上に、おめでとうって言って欲しいだけなのになぁ。生まれて来てくれてよかった、逢えてよかった、こうして祝える関係になれてよかったって。誕生日って、そういう日でしょう? ああーあ、そのひと言があれば、あたしは月まで行けるのになぁ……!」
 反応はなかったけれど、うるさいって言われなかっただけ、よかったかもしれない。
 まあ、ただ単に、シャルルが仕事に集中していて、あたしの話なんか耳にも入ってなかっただけだと思うけれど。でも、だからこそあたしは、もっと大胆にシャルルにアプローチする決心をした。
 たとえば……廊下を歩いている時、
「シャルル、今日はあたしに何か言うべき言葉があるんじゃない? 誕生日なのよ、あたし」
「ああ、そういえば、この書類、スペルが間違っている。いつも言っているが、書き写す時にはもっと慎重になって欲しいものだね」
「シャルル、いくら貝だって、息をする時には口を開けるものよ。さあ、少しくらい口を開けて!」
「人間は鼻呼吸する生き物だ。当たり前のことだが、私は人間だ。貝ではない」
「あたしもシャルルの誕生日には朝から晩まで祝って上げるからっ!」
「辞退する」
 シャルルを見る度に声をかけてみたけれど、梨の礫(つぶて)もいいところだった。
 そんなやり取りを延々と繰り返していたら、いつの間にか、今日あたしが誕生日だということが研究所内に広がっていたらしく、資料を取りに行く時や、飲み物を買いに行く時、お使いを頼まれた時に、顔馴染の人達から擦れ違いざまに「Bon Anniversaire!」と声を掛けられた。手にはいつの間にかお菓子……ってこれは、いつものことだったわ。


 ――でも結局、シャルルから祝いの言葉をもらえないまま、とうとう帰る時間になってしまった。
 明らかに落胆するあたしの肩を、みんながポンポンと優しく叩いて励まして帰って行く。その度に悲しさが積もった。それは誰の眼から見ても絶望的なことだったのだと、あたしは受け止めなければならなかったからだ。目の前にあるアルファベットが、意味のない羅列に見えた。
「そろそろ出てくれないか。終業時刻だ」
 いつの間にか、シャルルがすっかりコートを着込んで傍に立っていた。
「あっ、ゴメン。すぐ用意するからっ」
 このままズブズブと沈んでしまいそうだった気持ちを慌てて切り替えて、バタバタと帰り支度を始めるあたしを、シャルルは呆れたように眺めている。その溜息があたしの心を抉ったことなんて知りもしない彼がじっと近くで佇んでいるから、まあ、なんとも居心地が悪かった。
「……シャルル、あの、途中まで送ってくれない?」
 これくらい、いいでしょ。だって、今日は誕生日なんだもの。
 最後の力を振り絞って、あたしが体当たりをするように言うと、シャルルの青灰の眼がわずかに揺れた。……ちょっと、力み過ぎたかしら。
「地下鉄までならな」
 深い深い溜息の後、諦めに似た声音で、シャルルがそう言ってくれた。
 思わぬ返答にはしゃぐあたしの脇をすっと通り抜けて、シャルルがスタスタと長い廊下を行く。その早さは、決してふたりで歩く速さじゃなかったけれど、今はもう、そんなことはどうでもいいと思えるほど、一緒に帰れることが嬉しかった。


 古いアパルトマンに帰り着いてもまだフワフワしていたあたしは、その日届いた郵便物に眼を通して、更に嬉しくなった。バースデーカードが驚くほどたくさん届いていたから。フランス国内、日本はもちろん、イギリス、イタリア、ドイツから……。ただひとつ気になるのは、差出人の名がないカードが紛れ込んでいたことだ。
 白い、シンプルなカードで、右端にはバラ模様のエンボス。


 窓を見上げると、静かな光を投げかけるお月さまが見えた。





 ――まさか、ね。





<fin>


今回は「星」じゃなくて「お月さま」です。
ですが、このお話は「星降る夜に」シリーズです(笑)。ややこしい!
シャルルが全く祝ってくれないのは「勿論」な話なので、いつもと違って楽しかったです。

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