SS 58



 朝早く来てみると、マリナの席に、僕のプレゼントがポツンと置かれていた。
 部屋には甘いチョコレートの香りがほんのり充満していて、その対照的な空気に違和感を覚える前に、僕はチョコレートの甘い香りについうっかり和んでしまった。
 ――え、あれっ、気に入らなかった……??
 そう思って近付いてよく見てみると、開けた形跡は、ある。彼女が箱の中身を見たのなら、誘惑に負けてひとつは口にしただろう。問題は、その後か。
 僕はプレゼントがここにある理由をいくつか考えてみた。ひとつ、彼女の口には合わなかった可能性。ひとつ、プレゼントの存在を忘れてしまうほどの出来事が起こった可能性。ひとつ、彼女がこの研究所にいる可能性。
 僕は常々、都合のいいことをいいように考えることにしている。ネガティブなことを考えるのは悪いことじゃないと思うけれど、僕には向かない。なるようにしかならないと思っているし、自分の力ではどうしようもないこともあると知っている。諦めるのが早いと言われることもあるけれど、僕にだって執着心はあるから、それは少し違う。楽しいことを楽しく、苦しいことも楽しく考えるのが、僕のモットーなのだ。
 なので僕は、勝手に昨日あれから彼等の間に何があったのか色々想像してはニヤニヤしていた。彼等の関係に少しでも何らかの変化が表れたとしたら、僕はとても嬉しい。シャルルに迷惑がられても、大いに祝福してやりたいと思っている。
 僕は心を躍らせながら、シャルルかマリナが来るのを待ち構えていた。昨日の仕事を片付けていると、それから程なくして現れたのは、シャルルだった。「おはよう」と言えば「おはよう」と返ってくるけれど、それだけ。いつも通り眼も合わさないし、手も止めない。全く変わりがなかった。ちょっぴりガッカリしたけれど、すぐに気持ちを切り替えてシャルルの席に近付いた。
「昨日は、あの後、何があったの!?」
 下から冷たい銀色の眼で睨まれて、僕は口を閉じ、少しだけ身を引いた。おお、怖い怖い。
「別に、何も」
「何もなかったなら、マリナがチョコレートを置いて行くような真似しないと思うけど?」
「……プレゼントのことで頭が一杯で忘れたんだろう」
 彼女があのプレゼントのことで随分悩んでいたのは知っている。知っているからこそ、今更そのことで頭が一杯になったとは考えられない。絶対にその後、何かがあったはずだ。結局、彼女が何を贈ることにしたのか聞いてなかったけれど、チョコレートと彼女のプレゼント後には絶対関係がある。ただ、それを知ろうにも、彼の様子からは窺い知ることは出来ない。
「何をもらったの?」
 答えてくれないだろうなぁと思いつつ、そう尋ねてみると、意外にも返事が返ってきた。
「涙」
 意地の悪い笑みを浮かべて、それでもどこか満足そうに言うと、それ以上は喋らなかった。
 一体どんなことをしたら、彼女が涙を流すことになるというのだろう。プレゼントを渡されたけれど、こっぴどく断ったということだろうか。――あるいは、もっと違った理由か。
 滅多にないシャルルからの情報提供だったけれど、彼から得られる情報は極めて少ない。
 ほんの少しガッカリしたけれど、ここはもうしばらく待って、マリナが出勤して詳しく話してくれることを願おう。彼女の方が、情報を引き出しやすい。涙の理由や、プレゼントを渡した後のことはシャルルとの秘密でもいいけれど、彼に何を渡したのか、それだけは僕に話してくれてもいいんじゃないかと思う。だって僕は協力者だよ? 知る権利があるっ!
 ――よし、言い渋ったら、そう言ってやろう。
 そう勢い込んだけれど、その必要は全くなかった。
 何故なら、マリナが出勤してきた時から様子が可笑しかったから。
 普段通りに見せかけて、シャルルの方を見向きもしない。いつもなら返事が返って来るまで挨拶を続けているのに、今日はそれもなしだ。おまけに妙にソワソワしている。こんな時、彼女は誰かに相談したくて堪らなくなるらしく、促せばポロッと喋ってくれるのだ。
 昼休みには話を聞くからそれまで頑張れと励まし、昼休みになるとすぐに彼女を連れ出して、改めて正面から彼女を見た。
 ――ああ、その時の僕の心情を、何と言えばいいだろう!?
「ロジェ、どうしよう。あ、あた、あたしっ、シャルルにとんでもないことしちゃったぁ……」
 彼女の、あんなに真っ直ぐだった瞳が、シャルルとのことでこんなにも揺れて乱れている。どうしたらいいのか分からず、今にも泣き出しそうなくらいだ。
 正直、驚いた。
 彼女は、マリナは、シャルルのことになると、こんなにもあっさりと心揺れる女の子になってしまうのだ。本当に、シャルルのことが好きなのだ。
 昨日、シャルルも、この状態のマリナを見たのだろうか……。
「マリナ、君には、夢を叶える力があるよ。だから、心から願う気持ちを、遠慮という形で引っ込めてしまわないで。その密やかな願いを叶えようとしてくれている人達のことを、忘れないで。いつでも君を見守っているから。大丈夫だよ、よく見てごらん、シャルルは君が思っている以上に君の事を大事に思っているから」
 だから、泣かないで。
 マリナを慰め、励ましながら、僕はマリナから昨日のことを聞かないでも、シャルルが受け取ったものが何であるか、見当がついた。
 それは確かに、“形もなく、においもなく、眼に見えないもの”だった。





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