SS 57



 0距離からほんのわずか、12センチの間に、どのくらい果てしない空間があるというのだろう。私は、ずっと、その空間のことを考えている。
 友人と呼ぶには親密過ぎ、恋人と称するには余所余所しい。――それが、今の私達の関係だ。
 体の密着には、もう何の違和感もないほどに、いつも近くに感じている。互いの体が触れても、拒絶の頭文字さえ頭に浮かばない。それだのに、ふとした瞬間にお互いの顔や視線が近くにあると認識すると、反射的にとられる距離、空間、認識の違い、そして生まれる何とも言えない微妙な空気。逸らされた視線の端にも映らないはずなのに、向けられる意識。様子を窺われている。感情を探られている。
 顔が思いがけなくも近くにあったという、ただ、それだけのことなのに。
 唇が触れ合った訳でもないし、視線を絡ませ合った訳でもない。突出した鼻を擦り合った訳でもない。……何を交わした訳でもないじゃないか。

 ぎこちない空気を漂わせながら来客を告げられた時の、彼女の顔といったら。待ってましたとばかりに、うれしそうに玄関まで駆けて行った。


 何故なのかよくわからないが、友人の機嫌がすこぶる悪い……気がする。
 会ってそうそう、抱きついてきた彼女と、抱きつかれたオレに対する怒りなのかと最初は思ったのだけれど、彼の周りに渦巻いていたブリザードがふっと止んで、くるりと背を向けた時、違うなと感じた。慌てて彼女の腕を解き、彼の後を追うと、少し遅れて彼女も後をついて来た。
「よかったな」
 低い、低い、地の底を這うような声音だった。
 全然、「よかった」という感じがしないぞ。心にもないことを言うな。背筋が凍るっ!
 それから、3人でティータイムをしながら昔話をしたり、近況報告を話し合ったりしたのだが、どうも、ふたりの様子がおかしい。オレの向かいに彼が座り、その彼の隣に彼女が座っている。しかし、隣といっても、間にはオレが彼女に渡したプレゼントが置かれているので、心理的距離を置いているのは一目瞭然だった。オレは彼に目線で尋ねたが、彼はわずかに首を振っただけだった。
 それからも、彼女の不自然な態度は続いた。まず気付いたのは、彼と視線を合わせないこと。彼に話しかけるものの、その目線を外すのだ。それなのに、どこか妙に彼のことを意識している様子が見受けられる。彼がいつも通りの態度を見せると、安心している。それから、ふたりのことを尋ねると、あからさまに動揺して話をそらす。これが事情聴取なら、彼女は疑わしい人物、または犯人を知っている人物としてマークしているところだ。
 もう一方の相手はというと、これがまたいつにも増して読めないのだが、どことなく、彼女との距離を測りかねているような気がする。優しくしたいのか、冷たくしたいのか、今一よくわからない。……いや、でも、彼女が相手なら、それも無理からぬことだろうか。彼女は不思議と、相手の喜怒哀楽を引き出す才があるから。今、目の前にいる彼と、これまで見て来た捜査に挑む彼とは、明らかに違う。普段接する彼とも、やはりどこか違う。
「……楽しそうで何よりだよ」
「ちょっと、カーク、何を見てそう言ってるのよ。あたしは今、食後のデザートを減らされるかもしれないっていうのにっ!!」
 対岸の火事だと思ってゆったり構えていたら、漏れた呟きを聞き咎められてしまった。仕方ない。溜息ひとつ、オレは呆れた声音を言葉に乗せた。
「欲張り過ぎなんだよ、マリナは」


 最近、ふと気がつくと、シャルルの顔がすぐそこにあったりする。
 近くで見ると、その肌の綺麗さにビックリするわよ。
 ……ええ、まあ、他にも色々と驚くことがあるんだけど、何より、そんなに近くに寄るまで気付かなかった、あたし達の距離に、一番ビックリするわ。近いのよ、近いのよっ、近寄り過ぎなのよっ!!
 思わず距離をとるあたしに、シャルルは不思議そうな、不安そうな、それでいて不機嫌さを混ぜ合せたような表情で見つめ返してきた。それから、何かをあきらめるような小さな溜息。かすかな苛立ちと、戸惑い、困惑する姿は、もう何度目だろう。あたしは、なんだか申し訳なくも、悔しく、悲しく、気恥ずかしい気持ちでそれを感じとっていた。
 その距離に、その瞳に、振り子は揺れる。最近、そのふり幅が大きいのは、シャルルのせいだ。必死でバランスを取ろうとする努力も空しく、いつかまた落ちて、失敗を犯してしまいそうで、恐い。だから、一定の距離を保ちたいのに、その距離の微妙な変化にあたしはついて行けず、まごついていた。
 そんなあたしに、カークは言う、欲張り過ぎるのだと。
 欲張る? あたしが? 何を……??
 何か言い返さねばと、ショックから我に返った時、突然、カークのモバイルが彼を呼び出した。逡巡する間もなく彼が飛び出して行ってから、三度始まった、ぎこちない沈黙。そして、彼の溜息。……その溜息は、何に対する溜息っ!?
「マリナちゃん、紅茶のおかわりはいかが?」
 シャルルの微笑と共に午後のやわらかい日射しの雰囲気が戻って来るのを感じながら、あたしはコックリと頷いた。まだまだ、当分、あたしの戸惑いの日々は続きそうな気がするけれど、取りあえずは、この彼の優しさに甘えようと思いながら。





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