SS 51



 少し涼しさを含んだ風が、丘の下からふうっと吹いてくる。
 草のにおいと、土のにおい、それから――この土地のにおい。
 この地を出て幾日が過ぎても、ここに戻って来れば、それだとわかる。体の奥底に染み込んで、一部となって、普段は気付かずにいるが、ここが帰ってくる場所なのだと、ハッキリと実感させられる。包み込むような、肌に馴染む感覚に、涙が出そうになる。生きて、帰って来ることが出来たのだと。安心して心を解き放つことが出来る場所、ゆっくりと、身を委ねていられる場所。このにおいを、ここに住む人を、守りたい。本当は、ただそれだけなのかもしれない。
 ここに居たい。
 様々な思い出が詰まったこの土地を失いたくない。
「カミルス……?」
 夢と現実の狭間でぼんやりしていたら、誰かがオレを呼ぶ声が聞こえた気がして、底に沈んでいる、無意識の中に散らばった意識を急いで掻き集めた。
 この声は、彼女の声だ。少し不安を滲ませて、恐る恐る名を口にする。
 ああ、また彼女に心配させている。本当は、笑っていて欲しいのに。そんなささやかな願いすら、この身では叶わないのだろうか。どうしてオレは……。
 ――パチリと、目蓋が開いた。
 そこは丘ではなく、見慣れた、いつもの簡素な部屋だった。部屋には、彼女の姿はない。
 彼女は、オレを起こしに来てくれたのではなかったか?
 どうしてあんなに不安そうだった。オレはまた発作を起こして運ばれたのだろうか?
 だとしたら、それはいつだ。……記憶にない。その前に、今は一体何時だ……?
 そんな、次々に浮かんでくる疑問に答えてくれる者も、いない。
「あ、カミルス、おはよう……」
 そこへ、眠たげな声を出し、眼を擦りながらフラフラと部屋から出て来た彼女と会った。不安を感じさせない、大きな欠伸をひとつ。それから照れくさそうにニッコリと笑った。彼女からは、仄かに、昨日とはまた違った薬草のにおいがした。
「――ああ、おはよう、能天気なマリナちゃん」
 この笑顔で、オレはどんなに心救われただろう。不思議なほど、どこからか力が湧き上がって来て、笑顔になれる。
 どんなに心乱れていても、すっと和いで、いつものように笑んでいられる。
 ここに居たい。
 彼女が地の底に沈みそうになっていたオレに力をくれ、迎えに来てくれたのだから、それに応えねばならない。信じてくれている彼女を、失望させてはならない。
 笑顔の彼女も、ムッとして抗議する彼女も、失いたくない。だから、守るのだ。力の限り。





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