SS 50



 少し、疲れていたらしい。
 ソファに深く座って、聞くともなしに聞いているふりをしていたけれど、どうやらそれも限界だったようだ。
 彼女のくだらない日常の会話をオレに言ったところで、何にもならないだろう。アドバイスをするほど奇特な訳でもないし、そこまでお節介でもない。プラスにもならなければ、マイナスにもならない。それだのに、彼女の話は途切れることはなかった。
 ……むしろ、オレの方にダメージが与えられているような気がする。
 ……これは、なんの罠だろうか。
 彼女の声は、決して美しいとはいえないし、心落ち着くような声音でもない。
 ありふれた、どこにでもある、女の声だ。
 けれど、彼女の声を聞いていると、引き込まれるのだ。
 意識の上を滑るように、声がいつの間にか奥にまで落ちて来ている。それに気付けば、それはいつの間にか逆転し、オレは彼女の中にいる気がしている。曖昧で、不可思議で、この日曜日の天気のようだと思う。
 キラキラと、窓に光る雨の滴が、曇り空から覗く光の筋をぼかす。尖った屋根の先が今にも空に突き刺さりそうで、その隙間から降りてくる天使もさぞ驚くだろうと、馬鹿げたことを考えた。
 そうして、意識がどんどん遠ざかる。
 優しく、クスッと息を漏らしたのは、誰だったか。
 以前にもこんな風に眠りにつく前に、誰かがおかしそうに笑みをこぼさなかっただろうか。
 今ではすっかりひねくれてしまって、眠りの底に落ちる前には「何がおかしいんだ」と、不愉快な思いをしていたのだが……。
「おやすみ、ミシェル」
 その言葉を聞いた途端、全てを許そうと思えた。愚痴交じりの言葉も、妙に鬱陶しい視線も、無視できない存在そのものにも、何もかも全部。
 安らぎを覚える唯一の瞬間に、誰かがいたのは久しぶりだと思った。
 こうして誰かの存在を感じながら眠りにつくというのは、何という幸福だろうか。
 まだひねくれていないオレが奥の方でそう騒いでいるのを最後に、意識が途切れた。


 眼が覚める頃には、全て忘れられているといいけれど。





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