SS 42



 どうやら、僕と彼女のくつろぎ場所は同じらしい。
 それは屋敷の中でも奥の奥、ほとんどというか、全く人気のない一室だった。古いレコードが棚に所狭しと押し込まれ、アンティークとも呼べない古ぼけた蓄音機が存在感を主張している部屋。縦に細長く、棚の反対側の壁には大きなタペストリーが掛けられている。前足を上げ、今にも駆け出しそうなユニコーンの絵が何故このような部屋に掛けられているのか、僕は知らない。もっと表に出せばその手の好事家どもの目を惹いたのにと、感慨もなくそう思うだけだ。梯子を登れば、狭いスペースながらロフトがあり、きちんと整頓された楽譜や詩集などが置かれている。
 個人趣味に走ったこの部屋の住人みたいな顔をして、僕と彼女は自分の好きな時間にそこに来て、好きな時間にそこを出る。丸一日来なかったとしても、疑問に思わない。そういう近過ぎない距離感が、僕は好きだった。
 今日もコーヒーを片手にその部屋のドアを開けると、ソファーの上で眠っていたらしい彼女が顔を上げた。そのソファーの背にジャケットやシャツを放り投げると、彼女はそれから逃げるようにロフトへと駆け上がって行った。大変、可愛らしい反応だ。
 蓄音機にレコードをセットすると、部屋はたちまちジャズで満たされた。
 ドサッとソファに腰を下ろすと、ジャケットの内ポケットから、招待状を取り出す。美しいカリグラフィーで自分と兄の誕生日を祝う会の日時等が書かれてある。従妹達が集まる部屋に行って偶然これを見つけた時に不参加を表明したのだが、マリナから、
「誕生日っていうのは、産んでくれた人に感謝する日なのよ! 確かに、エロイーズはもうこの世にいないけれど、感謝する気持ちが大切なの。……あたし達? あたし達はもちろん、あんた達を生んでくれてありがとうっていう気持ちと、生まれて来てくれてありがとうって気持ちでお祝いするのよ。ノンなんて言わせないわ、強制参加よ。だって、キューバにいるあんたの養父母さんのとこにも招待状出しちゃったもの。――ね、出てくれるでしょう? お誕生日会!!」
 とにっこり笑って脅された。出来ることなら、冗談にして欲しい。
 ふうっと溜息を吐いた時、背中に鈍い衝撃が襲った。何が起こったのか理解する前に、次の衝撃が頭を真っ白にした。何か鋭いもので背中を引っ掻かれたのである。何も身に着けていない肌に、これはキツイ。
 バリッと背中から引っぺがすと、それはマリナだった。
「何してるんだ、お前は」
 そう言うと、彼女はクルンと眼を動かして、何かを訴えた。
「意趣返しか? ――いや、その眼は、“遊ぼうよ”だな」
 僕に遊びを仕掛けてくるとは、実に興味深い。大分、鬱憤が溜っているとみた。
「いいよ、マリナちゃん。遊び相手に僕を選んでくれるだなんて光栄だね。君がヘトヘトになるまで、遊んで上げるよ。準備は出来てるだろうね?」
 パッと手を放すと、彼女はソファに着地して、期待と好奇心の混じった眼差しでこちらを見てくる。僕はその眼差しに応える為に、房の付いたカーテンタッセルを持って来て、彼女の目の前に垂らしてみた。
「どう、これで遊んでみるかい?」
 房が揺れて了承の合図。試合開始のゴングが頭の中で鳴ったような気がした。


「マリナ、もう降参かい? 僕はまだ物足りないくらいなんだけどな。でも、許して上げる。楽しかったよ。欲求不満になった時には、また誘って欲しいな、可愛いマリナちゃん」
 ――やがて、小さな彼女が遊び疲れてソファの上に顎を乗せると、僕はそう言ってその体を抱き上げて胸に抱えてやった。頭を繰り返し撫でてやると、彼女は目の前にあるものをペロペロと舐め始めた。最初は指先、掌、手首、そして顔、首、やがて……。
「ちょっと……マリナちゃん、くすぐったい……。あはは、もう、ホント、勘弁してくれっ。……んっ、待って、そこはダメだって……あ! ッつ。マリ、ナ」
「マリナ……!!」
 バ――ンと、壊れるんじゃないかと思うほど勢いよく開け放たれたドアの向こうには、憤怒の形相をした兄が立っていた。穴という穴から、薄い皮膚の表面から、抑えきれない怒りが溢れ出している。――やれやれ、兄もまだまだ未熟者だ。
「そんなに取り乱して、一体どうしたのさ、お兄様」
 兄の怒りの登場に驚いたのか、動きを止めたまま固まってしまった彼女を抱き直して、頭から背中にかけて、ゆっくりと撫でてやる。
「少し落ち着きなよ。ほら、マリナが怯えているじゃないか」
「………………」
 その時の、シャルルの顔といったら、なかった。
 ああ、出来ることなら、形にして残したかった。そうしたら、証拠としていくらでもバラ撒くことが出来たというのに。
「ねえ、マリナちゃん?」
 僕は彼女を抱き上げて、その鼻先にキスをした。
 ヘイゼルの瞳は、閉じることなく僕を見る。湿った鼻は少し冷たく、触れたまますぐ目の前の彼女と、少しの間見つめ合った。
「マリナに変なことをするな」
 それまで両腕にかかっていた重力がふっと消え、急に空っぽになった。見上げると、シャルルが彼女の首根っこを捕まえてぶら下げていた。いつもの兄ならば、冷めた言葉と視線を飛ばしてくるだけなのに、である。
「早く服を着ろ、時間だ」
 そう言って兄はそのまま部屋を出て行った。
 僕は堪らず吹き出して、声を立てて笑った。いや、笑わずにはいられなかった。
 こんなに面白いことはない。
「僕が変なことをしているだって? 変なことをしているのは、シャルル、君の方じゃないか!」


 猫にキスをして、なにが悪い?






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