SS No.37



「ねえ、キスしよ〜」
 その言葉を聞いた誰もが、何とも複雑な表情を浮かべてぐっと押し黙った。

 華やかな会場の一角で異様な雰囲気を醸し出している彼女に、怒りにも似た雰囲気を滲ませた男が一人、真っ直ぐ近付いてくる。その他の美しく着飾った女には目もくれず、男は奇行を繰り返す彼女だけを見つめてやってきた。
 迷惑をかけられている人間を押しのけ、男女見境なく絡んで楽しそうにしている彼女に近付くと、そこに強いアルコールのにおいが漂っていることに男は気が付いた。全くお酒を飲んでいない人間にとっては嫌なにおいだったのだろう、男は途端に眉を寄せて不快感をあらわにした。
「マリナ、いい加減にしておけ」
「あっ、シャルルだぁ〜。やっほー、元気? 元気??」
 うふふっと楽しげにそう問う彼女に、男はあからさまにげんなりした様子で溜息をもらした。横を向いて誰にともなく悪態を吐くのを、周囲の人間は固唾を呑んで見守っている。彼女はそんなことも知らず、おぼつかない足取りでふらりと椅子から立ち上がった。
 思わず差し伸べられた腕に体重を支えてもらいながら、彼女は男にニッコリと笑いかける。
「シャルル〜、キスしましょ?」
「…………」
「ねぇ、キス、キスしようよ〜」
 これは笑って見守ればいいのか、それとも聞こえなかった振り、見なかった振りを決め込めばいいのか……。ふたりの微妙な関係を少なからず知っている者はこの事態に躊躇った。
「じゃあ、眼を閉じろ。それから、その喧しい口も閉じていてくれ」
「うん、わかった」
 素直にそう言うと、彼女は自分の顔を男に差し出すように上向けた。


 話が終わると、シャルルは赤くなったり青くなったりと忙しかったマリナの顔を仰ぎ見た。
「ねえ、ホントにあたし、そんなこと言ったの!?」
「……その話、一体誰から聞いたの、マリナちゃん」
 肯定も否定もしないままそう問えば、マリナは少し怯んだようにミシェルの名前を出した。実に楽しそうに話してくれたのはいいが、肝心な部分は聞かせてくれず、「後はシャルルに聞いて確かめてみなよ」と、追い縋るマリナをかわして帰ってしまったのである。
「…………」
「ねえ、本当にあたしはそんなこと言ったの!? あんたは本当にあたしにキスしたの?」
「…………」
「ねえ、シャルルっ!!」
「…………」
 叫ぶマリナを無視してそっぽを向き、シャルルは深い深い溜息をついた。





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