SS No.36



 あの甘い香りに中毒する。
 蠱惑的なのはどちらなのか……。今は考えないようにしよう。

 ペロリと大量にあったチョコレートを平らげて、彼女は満足そうに相貌を崩している。しまりのない顔をして、ゆるゆるとその余韻を味わっている。彼女のティーカップから漂う柑橘系のほのかな香りが、チョコレートの甘いにおいを中和していた。
 目線を下ろせば、テーブルの上に、甘いにおいの残る包装紙やアルミ箔が散らばっている。
 両手に持っても余るくらいのチョコレートを小さな彼女がパクパクと貪るように食べるその様子は、実に圧巻だった。それは鼠のような小動物の食事風景を連想させ、じっと見守っている内に自分が飼育員か観察員にでもなった気分にさせられた程である。
「よくまあ、飽きずに食べたものだね」
 そう言うと、彼女は視線をこちらに向けて、ふふふっと幸福そうに笑った。
 皮肉というものが、全く通じていない。
「だって、おいしいもの」
 おまけに、答えにもなっていない。
 そう思ったものの、そこを突っ込めば彼女の滅茶苦茶な理論を聞かされる羽目になる。あれは、それまで培ってきたものをことごとく破壊する。確かにこちらが正しいと確信に満ちていても、彼女は思わぬ方向からそれを突き崩す。彼女の言うことも正しいのではないかと思えてしまう。それは危ない思考だ。己というものを失ってしまう危険がある。それだけは避けたい。愚かな兄の二の舞にだけはなりたくない。
「それは良かった。ところで、マリナちゃん、君の唇にチョコレートが付いているんだけど?」
 すると彼女は、口の周りをペタペタやってその場所を必死で探し始めた。
 こんな幼稚な女の、どこがいいんだ?
「そこじゃない。ここだ、ほら」
 見ていられずに、つい手を出して、彼女の唇を拭ってやった。
 けれどそれは、失敗に終わった。拭うつもりだったチョコレートは指の動きにそって伸び、彼女の唇を無意味に艶めかせたのだ。
「悪い、伸びた。でも、君なら別に構わないだろう?」
 赤面したまま呆然として見上げてくる彼女に、オレはニッコリと笑って見せた。

 それは危ない感情だ。
 無闇に深く追求しないのが、賢い者のやり方である。





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