SS No.35



 ついうっかりと、眠りについてしまうことがある。
 日中の間ずっと気を張っていた分、夜の闇は深く優しい。

 ――ところが、そんなある日、意識のない自分に誰かが何かをやっていると気付いた。一体いつから、何度そうされたのかわからない。とにかく事実を確かめてやろうと、寝たふりをしてその誰かを待っていると、部屋の前から私を呼ぶ声が聞こえた。口を噤んでいると、扉を軋ませ、猫のようにするりと気配を殺して誰かが部屋に入って来るのがわかった。そろりそろりと足音を忍ばせて、ピタリと私の前で立ち止まる。彼女だ。
「シャルル?」
 その声はそっと、不思議なほど甘く響いた。花のような、菓子のような香りだ。
 彼女はしばらく何か思案するようにじっとしていた。帰るでも、喋りかけるでも、起すでもなく、ただそこにじっと居座っていた。それは永遠に続くのではないかと錯覚させるほど、長い時間だった。夜の闇が音という音を全て呑み込み、その幕の裏に隠してしまったかのような沈黙。
 これ以上もう何も動きがないと判断して眼を開けようとした時、ふいに彼女が動いた。
 ――ちゅっ。
 と、かすかな音を立てて、彼女の唇が離れた。悩んでいた割には軽いキスだ。
 やはり、犯人は彼女であった。
 これが別の人物であれば、挨拶程度のキスだと思っただろう。ところが、相手は数か月前に好きだと告げてきた女だ。これ以上ひどい振り方はないと思う断り方をしたのに、それでもなお食い下がって居座り付いている女だ。キスの意味が違う。問題にしなければいけない。
 そして同時に、こうも考えていた。それは彼女が起した行動でありながら、彼女の自己完結した妄想行為の域を出ていないのではないかと。キスをした相手がたとえ生身の人間であろうと、眼を瞑っているのなら、それは実体のない妄想にキスしているのと同じこと。何も反応が返って来ないのにキスをしても、ちっとも面白くない。マネキンにキスをするのと同じことだろう。無意味だ。彼女の犯した行為は、単なる自己満足に過ぎないのではないか?
 彼女はきっと、そんな反応が返ってくることを無意識の内に恐れている。断られたり、拒絶されたりするのが、今更のように怖いのに違いない。潔く諦める覚悟、もしくは傷付く勇気と覚悟をきちんと持てないままだから、不安の中を歩くしかなくなるのだ。実に愚かしい。
 けれど、彼女は言う。
「おやすみ」
 気持ちを滲ませた、あの甘ったるい声色で、夜の挨拶を。

 ――でも、もうそろそろ、目を覚まさなければいけない頃合だろう。現実を見て、これ以上傷付くのが嫌だというのなら、早く家に帰るといい。





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