SS No.33



 緑色の光が部屋を満たしている。外で梢がさざめく度に、部屋の光もまた揺れ動く。
 そんな清閑な部屋の中で、綺麗なフランス語の発音が流れていた。その声が途切れると、今度はたどたどしい声がそれに続く。
 書けるようになりたい――とまでは言わないが、せめて日常会話くらいは話せるようになろうと、何かとお世話になっている生粋のパリジャンである彼に彼女が相談したところ、次のような返答を受けたのである。
「簡単だ。誰かにフランス語を習えばいい」
 その返答に異を唱えたのは、他ならぬ彼女だ。彼女は言った、日本語とフランス語を話せる誰もが自分の先生になってはくれないのだと。だからそれは無理だという。
「何だ、その眼は。まさか、私に絶対困難に決まっている先生役をやらせるつもりじゃないだろうな?」
 嫌がる彼を脅しに近い方法で頼み、条件付きで渋々了解させ、何とか彼に先生役をやってもらうことになった。けれど彼女はこの時まだ、甘い夢を見ていた。それから毎日2時間、厳しいフランス語の勉強が始まるとも知らずに……。
「英語発音はするな。最後のSはいらないと言っただろう!」
 氷のような冷えた視線を長時間浴びて、彼女の心はもはや凍えそうなほど。部屋に溢れる緑色の木漏れ日も、うっとりと眺めていられたのは待っている間だけだった。休憩時間にはぐったりと机に突っ伏して、動く気力すら残されていない。
 そんな彼女の様子に、彼はふと思い立ったように彼女の方を見てニヤリと笑った。
「今から私が言ったことを上手く復誦できたら、おやつを出してやろう。もちろん紅茶付きだ。どうだ、やってみるか?」
 途端に顔を輝かせた彼女が、首を縦に振ったのは言うまでもない。
 彼は、再会してから今まで、彼女には見せたこともない熱い眼差しでじっと彼女を見つめ、その形のいい唇をゆっくりと開いた。
「私はシャルルのことが好きです。とても愛しています。一生、どんなことがあっても、シャルルだけだと誓います。おはようのキスから、おやすみのキスまで、この唇はシャルルだけのものです。――さあ、ほら、簡単だろう?」
 最後の微笑みは、皮肉屋の彼がその正体を現した笑みだった。彼女は少々ムッとしながらそんな彼を見つめ返していたが、やがて口を開いて、彼に言った。
「言ってもいいけれど、あたしが言うと冗談にはならないわよ。シャルルは、それでもいいの? 言ったら信じてくれる? もしシャルルが本当にそう言って欲しいなら、何遍でも言って上げるわ。でも、気持ちを信じてくれないなら、言いたくない。本気でちゃんと聞いて、答えてくれるようになったら、復唱して上げるわ」
 言い終わると、彼女は椅子を引いて立ち上がり、そのままドアの所まで一度も振り返らずに歩いて行き、「お菓子とお茶くらい自分で調達できるようになったんだから。甘く見ないでよね!」と言って部屋から出て行った。残された形となった彼は静かに笑って、ウエーブのかかった髪をかき上げて天を仰いだ。
 その時彼が何を考えていたのか、それは誰にもわからない。





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