SS 30



 暖炉に火が灯る。
 初めは小さかった火が次第に部屋を暖めるくらいに赤々と燃えだすと、ツンと張り詰めていた空気がゆるゆると解けて行く。緊張も緩めてしまえば、それまで保っていた色んなものが意思の手から離れ、自由に動こうとする。
 もぞっと体を動かせば、唇から息が漏れた。
「大丈夫?」
 わずかな呻きに反応して、マリナが駆けて来た。ひんやりとした小さな手が額に触れて、熱を吸収していく。
「やっぱり熱が上がってるじゃない。大人しくベッドに行って寝てちょうだい!」
 覗き込む茶色の眼が不安に揺れている。眉間の間に皺が寄っているのが、何だか可笑しい。
「薬はきちんと飲んだから大丈夫だよ」
 そう言って目の前に来た髪に指を滑らせると、マリナは途端に静かになる。髪からはいつもの彼女の香りがした。記憶の中にずっと残る香りが。
「そこにあるものを見ても信じられない?」
 錠剤の入れ物と水の入ったコップ。それを見ても、医者が何と言おうとも、心配したがるのが女の性なのか、マリナは激しく首を振る。
 ゆっくりと背を撫でると、ようやくあきらめたように力を抜き、大きな溜息をついた。
「信じてくれる?」
「こんなことされて信じてもらえるって思ってるの?」
 ようやく答えてくれたその声は呆れたような声色で、奇妙に響いて耳にまで届いた。
「だって君はとても抱き心地がいいから」
 素直に褒めて上げたのに、また大きな溜息をつかれた。
「あたしは抱き枕じゃないわよ」
 不愉快そうにそう言ったけれど、決して怒っていないことはわかっている。
「じゃあ、間違えたんだ。薬を飲んだから眠くて」
 腕の力を強めると、マリナは少しだけ抵抗した。
「だからベッドに行って寝なさいって言ってるでしょうっ。ちょっと、聞いてる?」
「聞いてるよ。でも、少しだけここで眠らせて」
 また思考が保てなくなってきたけれど、それでもどうにか返事を返す。

 ――すると、彼女の腕が突然動いて、背中に回った。

 それはとても不思議な感覚で、全身の力が抜けるような安堵感とぬくもりが、熱からくる不快感や倦怠感を払ってくれているような気がした。もちろん、そんなことなどないのだとわかっている。けれど、そんな気がしているのだ。
「これじゃあホントに抱き枕じゃないの……」
 そんなぼやきが聞こえたけれど、抱き返してくれた腕と、背中を撫でる腕はそのまま。
「おやすみ、シャルル」

 保っていたバランスを壊す感情は、せっかく自由になったというのにそれをせず、また大人しく眠りの中へと落ちて行った。
 それでもまたどこかで、火が灯る。





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