SS 26



 昼間とは違う冷たい空気が、街や人々の間を通り過ぎる。
 沈みゆく太陽はもう空気を暖めることをしない。
 夜のベールが一枚また一枚と空を覆い出すその反対側では、太陽は赤く照り、雲や建物の一部を自身の色に染めて夕暮れを演出している。影は濃さを増し、古い街並みをくっきりと浮かび上がらせる。けれど、このセーヌだけはいつでもゆったりとした流れで、時を急ぐことはない。たゆたう河は時の流れそのもののように緩やかなのだ。
 そしてその光景は素晴らしい一枚の絵画のようで、ムズムズとした衝動がマリナを突き動かす。
 ウットリと見惚れ、河に沿うように走る道を歩みながら、彼女はようやく待ち合わせ場所に辿り着いた。そこにはもうすでに人がいて、風になびかせている長い白金髪ですぐにシャルルだとわかった。欄干に腕を乗せ、彼方を見つめて佇む後ろ姿に、ふわふわとした気持ちが心をくすぐって、マリナをうれしい気持ちにする。

 今すぐにでも彼の名前を呼び、その胸に飛び込んでいきたかった。

 それが出来なかったのは、ふとした瞬間に見えた彼の横顔がどこか切なく、物憂げな雰囲気をたたえていたからだ。走り抜けたトラックに髪を巻き上げられながら、どこか遠く別の世界を見ている。ただ、それは何も今に始まったことではない。彼はふとした瞬間よく自分の考えに没頭して、その他のことは何も考えられなくなるのだ。そこは彼ひとりきりの世界で、誰もそれを邪魔することは出来ない。これまでも、これからも。
 けれど、その時は何故か彼がどこか遠くへ行ってしまうような気がして、マリナは素直に飛び込んでいけなかったのだ。それは夕暮れの儚さにも似ていて、胸が少し痛んだ。
 そんな彼にマリナはそっと近付いて、彼の体に腕を回し、後ろからそっと抱きしめることしか出来なかった。
「マリナちゃん?」
 首を捻って、そこに見慣れた髪飾りを見つけると、シャルルは腕の中でくるりと反転した。胸に顔を埋めて抱きついてくる恋人に、彼はふっと笑みを漏らしながら、その小さな体に自らも腕を回して抱き返した。腕に力がこもり、さらに隙間なく抱き合う。
 彼女がようやく顔を上げると、シャルルが青灰の瞳を細めてじっとマリナのことを見ていた。その熱い眼差しは彼女の眼を捉えると、ふっと甘く輝く。
「どうしたの?」
 手を伸ばして、耳に掛かる髪を指先で梳いて後ろへと流し、親指で頬の輪郭をなぞる。
 シャルルのその行為に先程までの不安を簡単に吹き飛ばされてしまったマリナは、わずかに頬を赤く染めながら「何でもない」と言うしかなかった。彼の手が、マリナを愛おしいと告げていた。
「そう。じゃあ、キスしてもいい?」
 そう聞きながらすでに頬を傾けて近付きつつあるシャルルに、マリナは眼をつぶってそれに答えた。くすりと漏れた息がマリナの上にひとつ落ちてきて、ゆっくりと唇が重ね合わせられる。
 夕焼けが最後に恋人達を赤く染め上げて、石の上に濃く長い、ひとつの影を刻んで沈もうとしていた。





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