SS 22



 池田麻里奈という女の子は、思い込んだら一直線なところがある。
 人の心の中にはズカズカ入り込んでくる癖に、妙に鈍いところがある。
 彼女に気付かれる前に、逃げられないようにするために、今日も彼は“フリ”をする。気付かないフリ、知らないフリ、見ないフリ。平素以上に自分自身を律することぐらいやってみせる。手に入るというなら、どんな汚い手口でも使って見せる。だから……。

 ぷうっと膨れた頬に尖った唇。眼鏡の奥には不服そうにきらめく眼。
「ちょっと、人がせっかくデートしましょって誘ってるのに、どーしてこんな書類を持たせられなきゃなんないワケ!?」
 体勢を崩しながら持ち直した書類に一瞥を投げ、細められた眼をシャルルに向ける。請うようなその眼差しの中、わずかに含まれる熱に気付かない彼ではない。けれど、シャルルはそれを無視して視線を落とした。
「見てわからないか? 私は今、仕事中なんだ。話がしたいだけなら手でも足でも動かして少しは役に立ってからにしろ。どうせパティスリーにでも行きたいとかそんな内容なんだろう?」
 さらりと言い当てると、不満に開かれた口は貝のように閉じてしまった。
 全く、思考が読みやすい。
「まだ信じてくれないの? こんなにデートに誘ってるのに」
 重たくなってきたのか、抱えるようにして書類を持ち、呆れとも悲しみとも怒りともつかない複雑さを滲ませて訴えてくる。心が惹かれないとは言わない。が、決定打に欠けるなと、シャルルは冷静に判断を下した。
「シャルル、ここはオレに任せて、マリナとデートに行って来たらどうだ?」
 先程からずっと聞き耳を立てていたロジェがマリナの見方に加わり、そっと促す。それに力を得たのか、マリナがそうだと言わんばかりに首を縦に振る。ところが、2対1の状況でも、シャルルは決して揺るがなかった。ゆっくりと顔を上げると、口の端だけで笑って見せ、
「今の言葉、もう一度言える勇気があるか、ロジェ?」
 と、優しげな声色で言い放ったのである。ブルブルと首を振るロジェに満足げに頷き返したシャルルは、そのまま視線をマリナに移した。醒めるような青灰色の瞳に視線を絡み取られて、マリナははっと息を呑む。
「君が私を好きだというなら、少しでも近付ける雑用係という任務は大変な好機だと思わないか? 断れば、無論、私は君を締め出す覚悟だ。けれど、手と足さえ動かしていれば、君はここに居られる。君の聞きたいことも、仕事をしながら聞こうじゃないか」
 意地の悪い笑みをどこで覚えてきたのか、シャルルは至極楽しそうな、余裕に満ちた表情でそう言った。立てられた腕の先を、たっぷり時間をかけて組むその動作は、見る者にとって無言の圧力となることを知っている者のそれだ。その態度は決して、自分のことを好きだと言ってくれる人物に対する態度ではない。
 マリナは少し俯いて唇を強く噛みしめた。
「それとも、私のことが好きだと言ったのは嘘だったのかな?」
 その声に含まれる笑みに、マリナはカチンときて顔を上げた。言葉もそうだが、自分の気持ちを冗談にされるのは我慢ならない。決心してここまで来、なに振り構わない思いで気持ちを伝えているのだ。たとえ好きな相手であろうと、その気持ちを傷付けることは決してしてはいけないことのはずだ。
「――やってやろうじゃないの。気持を疑われたまま帰る訳にはいかないわっ。いいわよ、やってやるわよ、雑用係!」
 バシンと音を立てて閉められたドアを見つめ、呆気に取られながら、ロジェは嘆息した。本当に、どうしようもない。
「シャルル、好きなら好きって言ってやったらいいだろう。どうしてそう捻くれたことをするんだ。あれじゃあ、マリナが可哀想じゃないか」
「君の意見はもっともだよ、ロジェ。しかし、見ていて面白いだろう? 何より、自分の為に一生懸命になってくれる姿を見るのが好きなんだ。ゾクゾクする」
 ロジェはもう一度嘆息すると、仕事に戻った。

 私とマリナは今、旅をしている。その行き着く先が、お互いの心だったらいい。そうならないなら、このまま嫌われて二度と逢わないよう。もどかしくても、臆病者だと言われても。私がこの世で一番恐れているのは彼女。ギリギリで勝負しなければ得られない。

 ――だから、二度と離れて行かない心を望んでいる。





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