SS 17



「何なのよ、あいつはっ!」
 彼をあいつ呼ばわりする彼女はさすがだと、ジルは苦笑いしながらドアを静かに閉めた。声が彼のところにまで漏れていたかもしれないが、そんなことすらお構いなしだ。もちろん、周囲のことなどおよそ眼中にない。
「マリナさん、少し落ち着きましょう」
 だから、彼女の傍にいる人間が彼女を止めなければいけない。――そう、たとえば、こういう風に。
「……ジル、あたしがキャラメル一粒で大人しくなると思ったら大間違いよ。どうせなら、二粒くらいまとめてちょうだいっ」
 掌に落とされた小さなお菓子に、マリナはすぐに飛びついた。キャラメルをもらった彼女はすっかり怒りを納め、口の中で幸せを転がし、何事もなかったかのように笑って、ジルとふたり、街へと出掛けて行った。


 その数日前――。

 珍しくも、ジルは怒っていた。
 静かすぎて誰も気付かない程に、彼女の怒りはわかりづらい。昔の癖なのか、彼女の隠した本当の感情を読み取ることは常人には難しい。読み取れるのはほんの数人。その中のひとりがすぐ横にいて、ジルよりも前に不快感をあらわにして腕を組み、背もたれに体を預けていた。冷たい眼でじっと彼等を見つめている。
 そうしてついに耐えかねたように立ち上がった彼が席を立つと、ジルも大人しく従って席を立った。これ以上一秒だって我慢できないギリギリまで居て上げたのだから、挨拶は省略させてもらおう。ふたりの間で、そんなことが暗黙の内に決まっていた。
「そんなに怒るな」
 しばらくの沈黙の後、長い廊下を左に曲がったところで急に彼が口を開いた。
 部屋を出てから、3分後のことである。
「怒ってません」
 憤然と答えたジルに、彼は珍しく口を噤んだ。
「怒りを通り越して、今は呆れ返っているところですから」
 長い長い溜息をついて、それからおもむろにポケットを探っている彼を、ジルはチラリと横目で見てすぐに黙殺した。もっと彼等に何か言って脅してくればよかったなどと、心の底から思う。水でも掛けて出て来ればよかったのだ。自分のことすら見えていない彼等に囲まれている苦痛に、勝ってしまったことが悔やまれた。
「――んっ!?」
 これからどうやってこの思いを倍返ししてやろうかと考えていた時、突然、口に何か放り込まれた。
「それでも食べて落ち着け」
 反射的に横を向くと、彼が無表情のままそう告げた。ゆっくりと広がる甘い香りに、ジルは安心してそれを噛んだ。それはとてもやわらかく、雪のような甘さだった。口から消えた後には何も残らない。
「……聞いてもいいですか? どうしてあなたがキャラメルなんて持ち歩いているんです?」
 少なくともモヤモヤした感情を無くすことに成功したジルが、彼に問う。
 すると彼は、ほんの少しだけ表情を緩めながら、やわらかな笑みを含む声音で答えた。
「ある女の子の鎮火剤としてね。必需品なんだ」
 キャラメルの甘い香りをほのかに残しながら、ジルの中にひとりの女の子の顔が浮かんだ。喜怒哀楽を隠せない故に、自分をきちんと知っている親友の、怒った顔だ。
「ふふっ」
 思わず笑ってしまったジルを尻目に、彼は天井を仰いだ。
「頻繁に甘いものをやるのは意に染まないが、仕方ない。キャンディでもよかったんだが、うっかりホイホイやるとすぐ虫歯になるからね。キャラメルが一番いいんだ」
 嘆くように言った彼の横顔を、ジルは軽く睨みながらたしなめるように口を開いた。すっかり落ち着きを取り戻している自分が悔しい。
「シャルル、それ、マリナさん以外の女の子にはやらないで下さいね。もの凄く勘違いされますから」
「言われなくても、マリナ以外に、こんなことはしない」
 キッパリと言い切って、にっと楽しそうな笑みを浮かべた彼に、ジルは親友を思った。
 ……出来れば、そんな状態になることを避けてほしい。
「それに、私は誤解されない相手を選んだつもりだ。君は誤解なんてしないだろう」
「今更ですからね。お望みなら、誤解して差し上げてもいいですよ?」
「いいや、結構。私も忙しいんでね」

 静かすぎて誰も気付かない程に、彼女の怒りはわかりづらい。
 けれど、ひとりでも気付いてくれる人がいるのなら、彼女はそれでいいと思っている。
 気付いて欲しいと思っている人が、気付いてくれているから。

 だから今日も彼女と共に出掛けよう。

「マリナさん、今日はアイスカフェ・オ・レを飲みに行きませんか。キャラメル味にしましょう」
「賛成! じゃあ、さっそく『スリーズ』に行きましょっ」


 だから今日も彼女と一緒に出掛けよう。





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