SS 16



 彼は漆黒の闇の中に抱えていたものを乱暴に放り出した。
 短く息をついて、無造作に髪をかき上げる。白金の髪がキラリと光りを跳ね返して闇の中に戻っていった。広げた腕の下にはスプリングが利いているベッドがある。ボスッと乾いた音を立てて、それは落ちた。
 むっくりと起き上がった彼女は、先程までその腕の中で大人しくしていたとは思えないほど俊敏な動作で、彼のネクタイを掴んで引き寄せた。
「なにすんのよぉっ」
 たった数センチ離れているだけの近距離。すぐ目の前には互いの顔があり、彼の方が彼女を見下ろす格好だ。アルコールの臭いで自然に眉を寄せたが、相手は一向に気にしないらしく、少し開いた口から荒い呼吸を繰り返す。
「飲み過ぎだ、マリナ」
 つっと青灰色の眼を細めて、低く囁くように彼が言う。
 彼女の脇に片腕をついた男。寝室。ベッドの上。互いの肌が触れるぐらいの密着度……。
 頬を傾ければ、すぐにキスが出来るくらいの距離に彼女の顔があるのだ。とろりと潤んでいる瞳が漆黒に輝いて、彼をじっと見つめている。
「飲みすぎてないっ」
 皺のないネクタイをさらに握りしめ、彼女は力任せに引っ張った。ぐっと顔を近づけられ、彼はとっさに首を後ろに引く。
 それが、彼女には気に入らなかったらしい。
「……なんで逃げるのよ?」
「逃げてないよ」
「うそ、逃げたわよ」
「逃げてない」
「逃げた!」
 彼自身、自分でも馬鹿らしいと思う。が、逃げたと言われるのは心外だった。
 むうっと口を尖らせていた彼女の唇がかすかに動いて、彼が聞き取れない言葉を紡いだ。そうして、次に彼女の言葉から出てきたのは、彼の名前だった。
 その時、髪をかき交ぜてこれからどうしたものかと考えていた彼は、名前を呼ばれて何の警戒もせずに首を回して向き直った。と、突然、首がまたぐいっと引っ張られる。
 瞬間、彼の唇に何かが当たった。
「ふふふっ。おやすみぃー」
 そう呟いて、彼女は眠りに落ちた。上半身が反れ、ボタンを外していたシャツの間からまったく日に焼けていない肌が覗いて、上下に揺れている。
 彼はそっと溜息を落として彼女を横たえさせ、襟元を整えてやり、そうして毛布をかけてやった。
「マリナ、残念だが、今のはキスとは呼べない。キスはもっと心を籠めてするものだよ」
 酔っ払って寝ている相手にそんなことを言いながら髪を撫でていた彼は、腰を屈め、たっぷりと心を籠めて、彼女にキスをした。
「おやすみ、愛しいマリナちゃん」
「ん――…」

 Ouiとも、Nonともとれる返事が返って来た。





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