SS 11



 しんと静まり返った漆黒の夜に、物音をたてないようにと気を使う人の気配。
 明かりもつけないで静かに足を進めるその人は、重いカーテンを潜り抜けて部屋に入って来た。動くたびに聞こえる衣擦れの音が、彼が帰って来たそのままの格好でやって来たことを告げている。
 眠り中のぼんやりした意識の中で音だけを聞いている状態の彼女は、すっかりいつものように眠っていると思われていることだろう。けれど、彼女もその状態から何が出来るわけではないので、寝ているといっても間違いではなかった。
 真夜中の侵入者は、カツンと音を立ててベットのすぐ傍で立ち止まる。
 窺うような様子で沈黙が続き、やがて彼は身を屈め、寝入っている彼女の顔に自分の顔を近づけた。元は太陽の光のようだった銀色の髪が夜の闇を横切る。力の抜けた無邪気な寝顔に、濃い影が落ちた。
「ただいま」
 そっと囁き、彼は彼女の短い髪に触れた。
 耳だけで聞いていることしか出来なかったが、そのひと言だけで、彼女はほっと安心した。帰ってくる時間が遅いとはいえ、今日も何事もなくこうして戻って来た。それだけで、彼女は充分だった。そっと触れてくるその感覚がくすぐったい。
「おやすみ、マリナ」
 小さな額にやわらかいものがゆっくりと触れて、名残惜しそうに離れていく。
 重なり合っていた銀色の髪が、微かな重力と何かを残して彼女から離れていく。
 最後にもう一度彼女の髪を撫で、疲れた重い体を再び両の足で支える体勢に戻す。すっくと立つその姿勢に、彼の品位が見える。細められたエメラルドの瞳に、彼の深い愛情が静かにきらめいているのが見える。
 彼は来た時と同じように静かに踵を返すと、そうっと部屋から出て行った。
 朝にはまたいつもと同じように彼女よりも少し早く起き、彼女と一緒に食事をし、共に笑いながら過ごす日になるだろう。
 遠ざかって行く足音に自分の意識を重ね、彼女の心も再び夜の闇の中へと戻って行く。朝にはまた同じように過ごす日が、自分と彼とに訪れる。それでいい。それがいい。
 彼が笑って楽しそうに過ごす日がそこにあるなら。
 長い夜。不安な夜。
 でも今度こそ彼女は安心してその身をゆだねることが出来る。
 明日また、彼の優しい瞳に会うことが出来るから。





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