SS 10



 彼女が警戒をしていることぐらい、承知していたんだよ。
 本人ですら気付いていないぐらい自然な仕草で。勝手に近づいて来るくせに、触れようとすると逃げてしまうなんて、卑怯だよね。

「そうですか」
 話し相手はいい加減に相槌を打つ。その手はペンを持ってさらさらと言葉を綴っていた。窓から差し込む光も、積み上げられた本に遮られて手元が薄暗い。その反対側には、机の上に腰かけながら足を組んで愚痴る、絶世の美女……なら嬉しかったのだが、そこに座っていたのは絶世の美男子だった。
 美人には違いないが、性格がすこぶる悪い。
「ここ、綴り間違えてるよ、君」
 その部分を整えられた指先でトントンと叩きながら、彼が言う。その個所を幾分過ぎた後で言われると、話しかけてくるからだろうと反論したくなる。訂正を加え、途中だった文に戻る。その間も彼はずっと話しかけてくるのだから、たまらない。一層のことBGMだと思いたいが、それには彼の存在が大き過ぎた。
「ずっと一緒にお茶してたのに」
 どうしてだろうと、わかり切っていることを聞いて来る。そこに声に含み笑いが混じっているから手に負えないのだ。彼が面白がっている間は彼の頭脳が冴え渡っている証拠であり、そのすべてが彼の思考範囲の内にあることなのだ。その青に近いブルーグレーの瞳も、微笑をたたえた口元も、その繊細な輪郭も、動作ひとつでさえ、そこから彼独特の絶対的な自信が滲み出している。そのわずかな違いが彼等を見分けるのに役立っているとはいえ、それが何だというのか。どちらも同じだ。特に彼が見せる笑顔が信じられないことは、何ら変わりない。
「すみませんが、邪魔しないでいただけませんか」
「邪魔してないよ。現に、君は間違った綴りや計算を訂正できているじゃないか」
 心外だね、と首を左右に振る。
 聞いている方が呆れたような顔をすると、ドアをノックする音と当時に重いドアが開き、ひょっこりと話題の人物が顔を覗かせた。眼鏡の奥で、彼女の眼がきらきらと輝いている。
「今、大丈夫? ジルが、お茶の用意が出来たから一休みしましょうって」
「それは、オレも入っているのかな?」
「もちろんよ」
 にこっと笑って彼女が言えば、ふっと横にいる彼の体の力が抜けたように感じられた。それは本当に一瞬の出来事であり、自分でも今感じたものが信じられずにペンを握ったまま彼のその横顔を呆然と見ていたが、パチリと眼が合った瞬間、彼の青灰の眼が三日月の形に細められた。
「マリナちゃん、ペピート君はまだ仕事が途中だそうだから、切りのいいところまで仕事してから来るそうだよ」
「っな」
「あっ、そうなの。じゃ、頑張って早く終わらせて来るのよ。待ってるからね!」
 白金の髪の間から自信できらめく眼がペピートを笑って見ていた。彼の手はごく自然に彼女の背に回り、肩を抱く。その反対側の手で、彼はペピートに手を振った。
 あの野郎、とペピートは罵りながらドカッと席に着く。
 絶対にすぐ追いついてやると、その怒りの矛先を紙に移した。それからしばらくの間、紙の上をペンが滑る音だけが部屋に響き渡ったのだった。





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