SS 03



 机に向かって絵を描いている時のあたしは、それはそれは、とても集中していて、人の気配に気付くことはほとんどない。食べ物の気配なら、気付くんだけどねぇ。うーん、不思議だ。
 そう、だから、今のこの時も、あたしは彼の存在に気付かなかったのよ。
「――マリナ」
 耳元で当然名前を囁かれたと思った時には、もう、あたしは彼の腕の中にいた。
 椅子の背もたれごと抱え込むその中では、いくらあたしがもがこうが、ちっとも問題ではないらしく、腕の力は弱まらなかった。眼の端に写る見慣れた白金の髪だけが、抱きしめている人物が誰なのかを告げていて、あたしは戸惑った。だって、突然のことに驚いて、声の聞き分けをしてなかったんだもの。あたしが知っている白金の髪を持った人物はここにふたりいる。さあ、後にいるこの髪の持ち主は、どっちだろう!?
「ちょっと、何なのよっ」
 ドキドキと早まる鼓動があたしに焦りを伝え、落ち着かない気持ちにさせられる。
 それを悟られないよう、怒ったように声を上げたけれど、気付かれてないわよね。
「どうして返事をしない」
 その声は、間違えようのない、シャルルの声だった。
 くぐもって聞こえたけれど、確かに彼の声だ。でも、その声音は苛立ちを隠そうともせず響き、あたしの心をビクッと震わせた。
「どうしてって……あんた、今来たんじゃないの?」
「ちがう」
 ……怒っている。
 どうやら、あたしはシャルルが来たことにも気付かなかったみたいだ。
 でもねえ、だからといって、どうしてこんな格好で怒られてるのかわからないわ。これは怒られる時の格好じゃないわよ。これはむしろ抱擁と言って、恋人同士が……って、そんなこと説明してる場合じゃないっ。とにかく、この行動は明らかに矛盾してるのっ!
「ごめんなさい、あたしが悪かったわ。反省してる。だから……だから、いい加減放してよっ」
 自分でもどんどん体温が上がっていくのがわかるだけに、この距離感は恥ずかしいのよ。近すぎる。早く何とかして欲しいの!
「……いや? 嫌ならそう言ってくれ。そうしたら放すから」
 そう言われて、あたしは、はたと気付いた。シャルルの様子がおかしい。
「いや…じゃない、けど……」
「じゃあ、もう少しこのままで」
 どうしていいかわからずに、あたしはただ黙ってシャルルの好きなようにさせていた。落ち着いてくると、シャルルの腕がかすかに震えているのがわかる。あたしは迷って、でも結局、ペンを握っていた手を彼の腕にそっと乗せることにしたのだった。触れた部分が熱を持ち始めると、彼はゆっくりと時間をかけて力を抜いていく。  彼は自分の力で、彼自身の中から這い上がってくる力を得ようとしていた。いつもの自信と不敵さを取り戻すために。苦しみ、もがきながら。それなのに、あたしは何もしてあげられない。自分の無力さを強く噛みしめるだけ。
 後から抱きしめる彼は、あたしの力を必要とはしていないのだと思うと、悲しくて、それ以上彼の髪に触れることも、背中に腕を回してあげることもできなかった。

 シャルル、あたしには、慰めさせてもくれないのね。





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