SS 01



 ――カラン、カラン。
 入口のベルが音を立てれば、それが合図だというように方々から一斉に声がかかる。異常、と呼んでもおかしくないくらいの大合唱だ。
「お帰りなさいませ、ご主人様!」
 すでにメイドのいる生活に浸かっている彼にとって、そんな言葉は何の癒しにもならない。使用人は皆、壁。そう思っていないとやっていられない。けれども、近頃ではある人物によってその生活に変化が見え始めた。無だったものを有に返すその動きに、彼の抵抗はあまりに無意味だった。彼女は過去に1度、鏡の中にいた人物をこちら側に引き戻したことがある。
「ご、ご主人様、ど、どうしてここに……?」
 突然のことに驚いたのだろうか。メイド服を着た彼女が、引きつった笑顔でそう訪ねてきた。その質問は、むしろ、こちらがしたい気分だというのに。
「そうだな。君に会いに……って言ったら、納得してもらえるかな」
「うっ。あ、あはははは。嫌だわ、ご主人様ったら」
 もちろん、顔には彼女の本音が表情として出ている。
 嘘のつけない奴。
 彼は、そんな彼女に向かって、にっこりと笑ってみせた。ところが、彼女は何を思ったのか、注文も取らずにドタバタと奥に逃げてしまったのである。最近姿を見せないと思えば、こんなところでアルバイトをしているとは、さすがに想像できなかった。
「あの……あなた、マリナの知り合いなんですか?」

 奥に逃げ込んでしまった彼女は、店長と彼の一挙一動を物陰からじっと見ていた。注文を代わりに取りに行ったとはいえ、少々帰りが遅い。焦れる彼女の元に、同僚から野次が飛んできた。
「ねえ、彼とはどういう関係なの!?」
「まさか、恋人っ?」
「なら、どうして逃げてくるのよ。おかしいでしょ」
 様々な憶測が飛び交う中、彼女の主張する「友達だってば!」という言葉は無視された。とはいえ、彼のことが気になる彼女は、こうしてふたりのことを遠巻きに見ているのだけれど。やがて彼と話を終えて戻って来た店長は、彼女の姿を見るや、両手を取って瞳を潤ませながら責め始めた。
「マリナ、彼はね、あんたを心配してやっとここまで来たんですって。それなのに、あんたったら、こんなところで何やってんの? ちゃんと彼と話し合ってきなさい、ほら、見ないようにして上げるから」
「ちょ、ちょっと待って。どうして話し合わなきゃなんないのよ」
「どうしてって……彼、あんたの恋人でしょう!」
 彼女が誤解を解こうとする暇もなく、奥から追い出されてしまった。彼女は仕方なく、彼のところへ行く。
「ちょっと、店長に何て言ったの? あたし達の仲を完全に誤解しちゃってるわよ」
「何も言ってないよ。昔からの知り合いだって言っただけさ」
「ホントに、それだけでしょうね?」
「まあ、その後に、それ以上のことは言えませんけれどって言ったかな」
 それでは、それ以上の関係があるかのように言っているのと同じこと。誤解されて当たり前だった。彼女は、肩を振るわせながら、必至で感情を抑えようとしている。
「ねえ、マリナちゃん、メイドがやりたかったなら言ってくれれば良かったんだよ。そうすれば、いつだってやらせて上げたのに」
「……そこまでして、やりたくないわよ」
 じゃあ、戻っておいで、と彼は最後にやわらかい笑顔をさせて彼女に言った。メイドを迎えに来る主人がどこにいるのよ、と彼女は思ったけれど、彼は彼女だけは元々特別な目で見ている。たとえば、彼女がそこにいてお帰りなさいと言ってくれるだけでも、彼女が彼のために飲み物ひとつを給仕してくれるだけでも、彼は彼女に微笑みかけたくなるのだ。こうして話しかけて、相手の反応を楽しみ、彼女との時を手に入れたくなる。それはもう、彼にとって完全に使用人ではない。ただのマリナという女の子だ。何故なら、彼女の前でだけは、彼は主人ではいられないのだから。





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