SS 00



 ――カラン、カラン。
 その音が鳴れば、店のあちこちから一斉に声がかかる。
 ふと、日本にいるような感覚になり、小さく笑みをこぼしたのは、この中にマリナさんが加わっていると知っているからでしょうか。マリナさんはやはり日本人なのだと。
 どのテーブルがマリナさんの担当なのか、職場内の人間関係など、すでに調査済み。従って、どこに座ればマリナさんが現れるのかという些細な疑問は解決していましたので、私は迷いのない足取りでその席に着きました。
 仕事内容や環境も、私が眼を通した調査書を見る限り問題はなく、マリナさんは仕事仲間の方とも上手くやっているようでしたし、マリナさんの気がすむまで見守っていようと思っていました。けれど、それでは納得しない方がいたので、今日は仕方なく私がこうして足を運んだという次第です。もちろん、その結果は彼の耳にも入れるつもりですが、我慢がいつまで持つのかが問題でしょう。
 「じ、ジル!?」
 振り返ると、すっかり板に付いたメイド服のマリナさんが呆然と立ち尽くしていました。
 もうずっと長く、マリナさんと会ってないような気がします。
 本当は、たった数週間のことなのに……。
 「こんにちは、マリナさん。ご機嫌はいかがですか?」
 パクパクと言葉を探して口を開閉させているマリナさんは、私の質問にただ頷くばかり。私はちょっと困ったように笑い、取り合えず、マリナさんにお仕事をしてもらおうと思いました。
 「ココアをいただけますか」
 「は、はい、今すぐ!!」
 そう言って走って行ってしまったマリナさんの後ろ姿を身ながら、私は、今すぐでなくてもいいのですけれど、と胸中で付け加えてしまいました。


 「それで、ジルはどうしてここにいるの?」
 マリナさんの仕事先を探し当てたことなど、調査してわかったことを説明すると、マリナさんは溜息をついてそう言いました。テーブルの上に肘を突き、その上に顎を乗せています。降参した様子の眼差しに、クスリと小さく笑みをこぼして、私は再び口を開きました。
 「シャルルが心配しているので、私が直接マリナさんの様子を見に来ました」
 「……そう」
 「そうなんです」
 不思議な間を置いて答えたきり、マリナさんは押し黙ってしまいました。きっと、何事か、考え込んでいるのでしょう。唇を噛む癖は、マリナさんが何かを考えている時に出るものですから。
 「ジルは、シャルルと同じこと思ってる? つまり、その、あたしが謝って戻ってくればいいんだって」
 「マリナさんは、ご自分が悪いと思っているのですか?」
 「……まあ、ね、少しは」
 「でしたら、早く謝ってしまった方がいいと思いますけれど、その後のことは、マリナさんの自由にしたらいいと思っています」
 「どういうこと?」
 初めて興味を持ったというように、俯いていたマリナさんが顔を上げました。何でも見透かしてしまいそうな黒い瞳は、私の次の言葉をじっと待っているようです。私の出す答え如何でマリナさんの態度が決まる。そんな感じです。
 「私はマリナさんの味方だということですよ」
 にっこり笑ってそう答えるだけで充分でした。それでマリナさんの質問に答えることが出来たと思いました。たとえマリナさんが屋敷に戻ってこなくても、マリナさんがいなくなった訳ではありません。毎日顔を見ることが出来なくなった。たったそれだけのこと。少し寂しいですが、マリナさんがそうと決めたことなら、私は何も言えません。
 ところが、マリナさんは徐々にその眼に角を立て、口を開いて言いました。
 「……ジル、あたしはそういうことが聞きたいんじゃないの。ジルの気持ちを聞きたいのよ」
 腕を突っ張り、前屈みになって私の顔を覗き込みます。口の端を下げて話すその仕草は、わずかながらに不機嫌さを物語っていました。
 「あたし、ジルにだけは誤解されたくないの。だからジルに聞くわ。ジルは、どう思ってる?」
 マリナさんの眼からは逃れられないと思いました。どんなに上手く取り繕っても、マリナさんの眼は隠していた本音を見抜いてしまう。空気のように、それを感じ取ってしまうのでしょう。隠せないと思った時、私はいつもマリナさんに敬服してしまうのです。
 「私は……マリナさんが出て行ってしまって寂しいです。ですから、早く返ってきて欲しいと、思っています……」
 「うん、わかった。ありがとう」
 「では、帰って来ていただけますか!?」
 「うーん、それはダメ!」
 それでは、私が正直に言った気持ちは何だったんですか。
 「だってあたし、まだこことの約束が残ってるんだもの。後3週間は帰れないわ」
 「ということは、マリナさんは少なくとも1ヶ月間は始めから戻る気がなかったんですね?」
 「そ、そんな怖い顔しないでよ。取り合えず働かなきゃならなかったんだから、ね。許してよぉ」
 「――では、サンドイッチをいただけますか? ああ、何だか喉も渇いてきましたので、飲み物も欲しいですね」
 「はい、只今お持ちしますッ!」
 そうして再び奥に戻っていった小さい姿を見送ると、私はマリナさんが戻ってくる短い間、彼にこの事をどう報告しようか考えていました。待てないことはない短い期間です。けれど、その期間はとても寂しい期間になると思いました。マリナさんと交わす他愛もない言葉の数々が、キラキラと宝石の粒のようにきらめき、手の届かない底の方に落ちていく様を想像すると、それはとても悲しく、私をやるせない気持ちにさせました。
 「はい、お待たせしましたー」
 「マリナさん、明日も伺って構いませんか!?」
 「え、ええ、いいけど……」
 「……ありがとうございます」
 「何なの?」
 マリナさん、シャルルもきっと、マリナさんの本当の気持ちを早く聞きたがっていると思いますよ。
 けれど、後3週間くらい、こんな気持ちを味わってもらっても大丈夫ですよね。
 その後はどうせ、シャルルはマリナさんを独り占めするのでしょうから。





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