春、うららかな、とある休日。
何故だか地方から通ってくる男――美女丸をいつものように迎え入れ、その日のあまりの暖かさにウトウトとしていたら、突然怒られた。
「おまえなぁ……、客が来た早々に寝る奴がどこにいるっ。おい、起きろ!」
客って言ったって、あんたはいつも定期的に訪ねて来ては好き勝手やって帰って行くだけでしょ。そんなの、客とは言わないわよ。そういうのは……あれっ、そういうのは何て言うんだったかしら?
「うるさいわねぇ。あたしはついさっきまで仕事してたところなのよ。疲れてるの、眠いの、寝かせてちょうだいっ!」
あまりにも眠たくてそう言って怒ったら、彼は手土産らしい袋からオレンジをひとつ掴み出し、あたしの方に向けながらこう言ってきた。
「いいだろう、2時間寝かせてやる。だが、2時間過ぎても起きなかった場合は、このオレンジの皮を絞って、おまえの眼に飛ばしてやるから覚悟しろよ」
その地味な脅しは、地味ながらも実に効果的にその力を発揮させ、あたしは首を縦に振って了解せざるを得なかった。だって、あの柑橘類の汁って、発泡スチロールを溶かしちゃうのよ。風船が割れるって言うのよ。そんなこと言われたら、何だか恐ろしいじゃないっ!
「まったく、またこんなに部屋を散らかしやがって。ここはホントに女の部屋か……」
まるで姑か小姑みたいな細かいことをブツクサ言いながら、美女丸は床に散らばっていた雑誌や用紙を手に、部屋を片付け始めた。
あたしはそんな美女丸を横目に見ながら、途切れがちになっていく意識の中で、言い訳めいたことを繰り返していた。
それから2時間後、あたしは甘いオレンジの匂いで眼が覚めた。
ぐるりと見渡せば、以前よりも数段綺麗に片づけられた部屋が広がっていて、美女丸の整頓能力が自分よりも遥かに高いことに、あたしは目を見張った。
「なんだ、もう眼が覚めたのか。汁を飛ばしてやろうと思ってたのに」
意地の悪い言葉にからかいの笑みを滲ませて、美女丸がオレンジを頬張る。あ、ちょっと、それってあたしへのお土産じゃなかったの!?
「おまえも食べればいいだろ」
「わーい、いただきます!」
ウキウキと甘い果実を食めば、口中にオレンジの香りが広がった。こんなにおいしいのに、風船を割る威力があるなんて信じられないわね。まあ、信じられないといえば、この美女丸の整頓能力も大概信じられないけど……。
そんなことを思いながらそっと美女丸を盗み見れば、彼はまるで自分の家にいるみたいにすっかりくつろいで、オレンジを食べている。
「ああっ、ほら、布巾。それでその落っことした汁を拭いておけ。吸いながら食えよ、ガキじゃあるまいし」
言いながら美女丸は手を伸ばし、下から上へ、顎に滴っていた滴を拭ってくれた。
これはまあ、意外と世話焼きな美女丸だからだと納得がいく。けれどその後、離れて行く瞬間、彼の人差し指があたしの唇にそっと軽く触れて行ったのは、一体どういうこと?
「…………」
「ったく」
美女丸は気付いていないのか、あるいは何とも思っていなかったのか、とにかくそのままいつものように話続けるので、あたしはそれに気付いていない、何もなかったフリをするしかなかった。だって、あたしだけが変に意識しているのだったら、何だか恥ずかしいんだもの。
「マリナ、こんなことじゃあ、幸せを見つけても、幸せの方が先に逃げて行くぞ」
「いいのっ、あたしは幸せを一緒に探してくれる人を見つけるから!」
何となくむしゃくしゃしてそう言い返したら、テーブルの向こうからクスリと笑われた。
「一緒に探してやろうか、幸せ」
彼が何を言っているのかわからなくて、あたしはちょっとの間反応が出来ず、ポカンと美女丸を見つめ返した。
「この時期なら、そうだな、夜桜の花見にも付き合ってやる。提灯の明かりで浮かび上がる桜もなかなか綺麗だから、見上げながら歩いて転ばないように注意してやるよ。あっちは桜と桃の花が競うように咲いている。どうだ、見たくないか?」
コクンコクンとあたしが頷くと、美女丸はふっと優しく微笑んだ。
「じゃあ、その身ひとつでいい。嫁に来い」
部屋に差し込むやわらかい春の日が、畳に落ちる。
暖かな窓の外では、羽を休めている雀がのんびりと日常を歌っている。
そんなに温度は高くないはずなのに、かあっと桜色に染まったあたしを見て、美女丸が笑う。
「マリナ、嫁に来ないか」
――ああ、オレンジの甘い匂いが体中に広がって、沁みて、涙が出てくるわ。
<終>
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