木下闇




 彼は何に対してもとても誠実で、滅多なことでは否定的なことを言わないし、しない人だということは、話をする内にわかった。それでいて明るく、物知りで、会話に困ることがなかった。
 けれど、彼とふたりっきりで話をすると、彼の中にも孤独が棲んでいて、蜘蛛の巣のようにその糸は張り巡らされているのかもしれないと思うようになった。それが確信に変わった時、あたしは胸が痛かった。こんなに明るく振る舞う人が、それでもなお孤独を抱えていることに、こんなに人に好かれながら孤独を抱えていることに、驚きと切なさがせめぎ合ってあたしの胸をざわつかせ、その日は彼のことばかり考えて眠れなかった。
 おかげで、翌日のあたしは目も当てられないくらい酷いもので、方々に迷惑と心配をかけた挙句に、皆の貴重な時間をあたしの監視に使ってしまうという失態を犯した。曰く、
「物凄い形相ですけれど、大丈夫ですか?」
「廊下で寝ないでくださいっ!」
「部屋のドアで反省のポーズをしていると危ないよ」
「もうあきらめてベッドで寝ろ!」
 ということで、ベッドに舞い戻ったのだけれど、正直、その時のことがあまり記憶にないので、二度寝を満喫した開口一番、「お腹空いたぁ。ご飯まだ?」というあたしの言葉に対する皆の何とも言えない顔が忘れられない。だってねぇ、物凄く、お腹が空いてたんだものっ!!
 食べている間は悩まない。悩みながら食べたって、ちっともおいしくないんだもの。せっかくおいしく作ってもらっているのだから、おいしく頂いて、悩むのはその後だって遅くない。ずっと考えていれば、いい考えが浮かぶという訳じゃないんだもの。
 問題の人物はと言えば、朝のあたしの様子を面白おかしく伝えている。あたしはそれをムスッとしながら聞き、彼からはやはり孤独の影を感じさせない不思議を考え、やがて、それが彼の魅力であることに気付いた。彼は意識的に、彼の持っている孤独や不安、寂しさや哀しさを見せまいと隠している。それが非常に上手く、こぼれた滴でさえも、水墨画の濃淡のように彼の奥行きを表すものになっているのだろう。その深さに、人は惹き付けられるのだ。
 それなのに、彼は自分を孤独だと言う。
 心に負った傷や弱さを誰にも見せることが出来ない故に。
 それはきっと、彼が心を開き切っていない、開き切れないからじゃないかと、あたしは思う。そしてそれは、彼の心を守るのに必要なことなのだ。呼吸をするように他人の細かな心理まで推察できるということは、同じような経験をしたことがあり、それを受け入れ、理解し、胸に刻み付けているからこそ出来ることなのだろう。そういう心の持ち主は、とてもデリケートだ。幾重にも防壁を築き、他者からの攻撃に備えなければ、たとえそれが礫であったとしても、心は破れてしまうに違いない。だからこそ、人一倍慎重にならざるを得ないのだ。そういうことを、ほとんど会ったばかりのあたしに漏らすなんて、彼は相当弱っているんじゃないかしら。
 慕ってくれる人からも離れてここにいるのは、彼等にカッコつけておきたいから、気を使わせたくないから、そして、気を使わなくていいから。――だから、彼のことを何も知らないあたしに弱いところをうっかり見せてしまったのだろう。

 本当は、「恋なんてしたくない」と言われた時、泣きたかったのはあたしだった。
 でも、この傷ついている人の負担にはなりたくなかったから、上を向いて、涙を押し込めた。喉と、眼の奥がじんわりと熱を持つ。滲む視界の先で木漏れ日がキラキラと降り注ぎ、飲み込んだ涙が気持ちを暴いてしまったことを、絶望的な思いで知った。胸が痛かった。
 それでも、痛みの為にそむけてしまった彼の眼をもう一度戻したくて、わかって欲しくて、信じて欲しくて、言いたいことだけを言って、あたしはその場から逃げてしまった。

 美馬さんの恋人になりたかったのは、あたしだ。
 美馬さんの心からの笑顔を取り戻させたかったのは、あたし。
 美馬さんに想ってもらいたかったのは、あたし!


 あたしが逃げ込んだのは、シャルルのところだった。
 仕事中に押し掛け、無理矢理時間を作ってもらって、あたしはシャルルの前ですべて告白した。美馬さんと話すようになったこと、話す内に次第に惹かれていったこと、美馬さんが抱えているものがほんの少し見えたこと、それがどんなに深く美馬さんの中を穿っているのか、そしてそのことに傷付いて初めて、自分が美馬さんを好きだと気付いたことを。
 我慢していた涙が溢れ出し、しゃっくりが止まらなくなり、時折鼻をかみながら支離滅裂になっていくあたしの話を、シャルルはただ黙って聞いてくれていた。
「だから、あたしっ、シャルルとは付き合えな」
 けれど、その言葉だけは最後まで言わせてもらえず、あたしの口はシャルルの繊細な指で押さえられた。涙の向こう側に見たシャルルは微笑んでいたけれど、その表情はどこか歪んで見えた。
「君のその恋は始まったばかりだろう。その先だって、どうなるかわからない。だとすればオレにだってまだ可能性はある。どんなに小さくても、可能性は最後まで残しておくものだ。そうは思わないかい、まんが家のマリナちゃん」
 額が触れるくらい近くにその美しい顔を寄せられ、甘やかな青灰色の瞳で見つめられたあたしは、もう、沸騰寸前だった。涙は蒸発し、体中の血が全部頭に上った。
 美人の顔ってそれだけでもう凶器よ、絶対!
「ふたりで頑張ろうぜ」
 呆然とするあたしを見て、シャルルはクスリと笑ってようやく席に着いてくれたけれど、その指が唇から離れる瞬間、撫でるように指を滑らせていったのは……わざと? わざとよねっ!? わざとでしょう!?!?
 えーい、クスクス笑うんじゃないっ!
「しかし、オレじゃなくて君に弱音を吐くとはね。全く、女性ほど優秀なカウンセラーはいないな」
 わななくあたしを尻目に、シャルルはそう言うけれど、それは違うと思う。
 美馬さんがあたしの前で漏らしたのは、ほんの少しの心の声だけ。そしてそれは、あたしの方が言いやすかったからだ。経験上、大体において、あたしは侮られていることの方が多い。某友人からは、チビな上に運動神経がニブイから怒っても全く怖くない、という評価をもらっている。つまりはそういうことで、あたしは決してシャルルが言うような力など持ってないのだ。
 テーブルの木目を意味もなく見つめながら、声のトーンが落ちていくのが自分でもわかった。それを自覚しているからこそ、情けなくて、みじめで、もっと力があればいいのにと悔しく思う。随分経ってから気付くなんて、遅すぎるもの。
「君も相当参っているみたいだね」
 シャルルは溜息交じりにそうつぶやくと、両膝の上に肘を乗せ、グイっと前屈みになった。吸い込まれそうなほど透明な瞳が、心の中を覗き込むようにまっすぐ見つめてきて離さない。
「君は彼を社交的な人間だと思っているようだが、それは少し違う。彼は好き嫌いがハッキリしている。嫌いな人間には近付いたりしないし、信頼の置けない人間に心の内を見せるようなことなんかしやしないよ。たとえ弱っているとしてもね。いや、弱っているなら、尚更だ。……マリナ、君は、とても素晴らしい。人の心を開く力を持っている。色んな可能性を開け放つ力を持っている。信じる強さを持っている。図々しいまでの懐っこさとその力があれば、君はどこに行っても生きていけるだろう。それは君の心が柔軟で、あたたかな心を持っているからだ。だからこそタカシも君に自分の弱さを漏らしたんじゃないか。――おっと、もうこんな時間だ。電話を掛けなきゃならないから今日はここまで、じゃあね」
 そう言われて摘み出されたあたしは、廊下で尻餅をついたまま、扉に向かって抗議をした。
 言うに事欠いて図々しいってなによ!
 褒めるならきちんと褒めてよねっ!! ちっとも褒められた気がしないわっ!
 あと、あたしの扱いがぞんざい過ぎない!? もっと優しく丁寧に扱ってほしいのよ。女の子を摘み出すなんて、ああ、ああ、お尻が痛いったら、この、アンチフェミニスト!
 一通り叫び終わって立ち上がると、来た時とは違ってスッキリしていることに気が付いた。
 シャルルの言うことが本当なら、美馬さんに最初から嫌われてはいないはず。
 だったら、今はそれでいいわ。
 まだ気持ちを隠して、美馬さんの傍にいることができる。恋を楽しむことができる。
 この先はどうなるかわからないけれど、色んな可能性の芽を自ら摘み取るようなことはしないでおこう。そう、思えるようになった。
 あたしのことを想ってくれている、シャルルの為にも。
 そして、ほんの一筋でもいい、美馬さんに希望を見せてあげたい。
 ずっと傍にいて守ることが出来なくても、記憶の中のあたしが励まし、守ってあげられるように、今日から伝えていこう。それが美馬さんの中に根付くように、繰り返し、繰り返し。
 たとえ心の傷が消えなくても、求めていたものは形を変えてきっと美馬さんの元に届くはず。
 その懸け橋のひとりになりたいと、あたしは拳を強く握った。



 ふたり共、新しい別れを恐れている。
 たとえそれが恋だろうと友情だろうと、互いの気持ちが揃わなければ苦しいだけで、その内に別れが待っている。無理矢理関係を押し付けてくるなんて、論外だ。
 全く違うタイプなのに、似た境遇を抱えているのだろう。それ故の共鳴もあるかもしれない。
 ――愛し愛された人と、別れなければならなかった。
 愛し愛された人との別れと、愛が叶わなかった別れは、どちらが辛いのだろう。オレは時々、それを考える。
 閉ざされた心がようやく開き始めたと思ったのに、彼女は他の誰かの孤独に揺れている。何かに心動かすマリナは、彼女自身をきらめかせる。もう彼女に恋をすることはないだろうと思っていたのに、また、そんな彼女にどうしようもなく惹かれるのだ。そんなオレも、まだ自己嫌悪を引きずっている彼女も、馬鹿だ。救いようのないバカだ。
 感情のままに叫び出しそうになって、強引に彼女を部屋から追い出した。追い出した後で、その愚かしさこそが恋なのだと、思い出した。
 何事にも全力で立ち向かっていく、マリナが好きだ。
 だから、愛することを止めないで欲しいのだ。傷付くことから逃げないで欲しい。どんな壁でも乗り越え、坂道だって駆け登って、誰かの為に走る、君が好きだから。
 それでもし、君がフラれることがあったなら、そのままここへおいで。
 ずるい人間だとか、自分勝手だとか、思わなくていい。
 涙を流していても、無理して止めることはない。
 全て抱えたまま、ここへおいで。
 最後にはどんなことがあっても、必ずオレがここにいる。
 そのことだけは忘れずに覚えておいて。



<完>



BGM:
たしかなこと/小田和正
愛を止めないで/オフコース


美馬さんを思って創ったハズなのに、美馬さんを押し退けてシャルルが出て来ました。
美馬×マリナ←シャルルになっています。
タイトルの「木下闇」(こしたやみ)とは、木が茂って木陰の暗いこと。
明るい場所から木陰に入ると暗く感じることがあると思いますが、そういう感じです。

戻る



inserted by FC2 system