幸せは木漏れ日の中




 菫、チュ−リップ、ヒヤシンス、そしてリラと、暖かくなるにつれて次々と、花々が代わる代わる咲き誇る。青い空に浮かぶ真っ白な雲は、ゆっくりと形を変えながら流れて行き、青々とした木々がその天辺で風に吹かれ、枝葉を擦り合わせて笑っていた。
 季節が再び巡って来たと眼を細めれば、いつしか過去のことも振り返らなくなったことを思い出した。傷跡の痛みも、いつの間にか鈍くなっている。そうなって始めて、彼は昔を懐かしく思い出すことが出来た。傾いていたバランスは、今はもう平衡を保っている。
 絶妙な感覚で、するりと彼の奥底まで入ってきた彼女につられて、いつの間にやら前を向いていた。癒されることすら拒絶した彼の時間を、静かに押し流したのは、彼女だ。それから、芝生の上を転がるように、溢れ出るパワーに惹き付けられ、いつしか彼は心から笑顔を見せるようになっていた。

 濁流の中、溺れかけていた美馬は、明日、結婚する。
 憧れの岸を信じ続け、導いた、太陽のような暖かさを持った、彼女と。



 美馬は、愛することを止めた。つき合うだけなら、いくらでも出来た。けれど、深く切り込むことだけは、しなかったし、させなかった。自分の傷の痛みのことに必死で、ふとした瞬間に湧き上がってくるドロドロした感情や思い出を誰にも見られたくないと、近付けさせなかった。
 シンプルな関係がいい。
 相手を笑顔にさせて、決して嫌がることはしない。趣味にも付き合ってあげる。女の子達の表情を見るのが楽しかった。たとえその裏で、どんな感情が蠢いているとしても。何より、相手を否定しないこと。それが全てだった。――それ以上は、ない。
 相手に求めることはただひとつ、美馬という人間を深く知ろうとしないこと。
 本当は隠すのが上手いだけの偽善者で、自己中心的な酷い人間だということを。
 けれど、心のどかで、そんな自分を受け止めてくれる人を欲していた。
 それは欠けることのない、夜空に輝く満月のような完璧さだった。
 そんな愛の形を求めていたけれど、いつしか、それを求めることも止めてしまった。そもそも愛なんていうものは、最初から自分には縁のないものなのだと彼は理解した。愛という枠組みから外れた人間なのだと。愛は、一生手に入らないものなのだと。
 自分は求めることしか出来ない欠陥品であり、こんな人間を生涯愛してくれる人は誰もいないだろうと、あきらめた。
 自分には出来ないことを、相手に求めようだなんて、虫がよすぎる。

 ――なぜ、自分はこんなにも何かに夢中になることが出来なくなってしまったのか。
 ――なぜ、自分がどうしたいのかもわからないのか。
 ――なぜ、信じることが出来なくなってしまったのか。
 ――なぜ、希望を持つことが出来ないのか。

 時折、美馬はひとり、そんなことを考える。
 そう考える夜は深く、長く、どこまでも続いているような気がした。



 ある時、何もかもに疲れて、フランスに逃げた。
 長期休暇を利用して、友人の家に転がり込んだのだ。生活に必要なことをするのにも億劫だったから、全て任せられる友人の家を選んだ。彼は何も言わずに、カウンセリングが必要になったら時間を作ると言ってくれた。けれど、結局、彼のカウンセリングを受けることは1度もなかった。くだらない話からその日に出された料理の話、昔話もしたけれど、ここに来た理由を、彼は一切聞かなかった。
 彼と会話をしている時に、時々、ひとりの女の子が混ざることがあった。過去に面識はあるものの、そんなに親しく話したことはない。けれど、同じ国に生まれ、遠く離れたこの地で一緒にいるということもあり、次第に親近感を抱いた。
 そんな彼女と、ふたりっきりで話すようになったのは、あの日からだ。
 何かから逃げて隠れていた彼女と、偶然、会った。大きな庭の一角で、本当に、偶然に。
 借りてきた本を持って木の下のベンチで読んでいるところに、彼女がひょっこり現れた――それが始まり。
 その日から、いつの間にかその木の下のベンチでふたりで過ごすことが増えた。他人との接触を断ちたくて逃げてきた旅先で、いつの間にかひとりの女の子が胸の奥深くに居ついてしまったとわかった時には、もう遅かった。彼女のあたたかさに、閉じていた気持ちが開かれ、自分でもよくわからない気持ちが溢れ出した。何故か、涙が出そうになったのを、覚えている。
 男の涙なんて美しくもなんともないだろう。でも、気付けば、どれだけ我慢しようとしても、枯渇した胸の奥深くからじわりじわりと、水が溢れ出すように湧き上がってくるのだ。止められる術もなく、気持ちと涙が混然一体となって流れ出た。
 頑なだった気持ちの結び目から広がる優しい気持ちに気付けば、知ることのなかった、敢えて知ろうともしなかった、様々な人の思いやりが、今頃胸に沁みてきた。
 知らなかった。知りたくなかった。
 肝心な自分が心から己を信じていないなんて、なんて滑稽なことだろう……。
 それでも優しく笑ってくれた彼女を、凄い人間だと思った。彼女にはきっと一生敵わない。
 ――もう、何もかも、許そうと思った。
 あの時の彼女の弱さも、自分の弱さも、そういう運なのも、どうしようもなく哀しいけれど、受け入れよう。そうして、今日まで目を背けてきた大きな傷跡も、そっと抱きしめてやろう。そうすることで、この身動きが取れないところから一歩だけ、前に進める気がする。
 全ては自分にとって都合のいい解釈だと、これは己の想像だと、冷静な自分が舵を取りながらも、溢れ出てしまったあたたかな気持ちと、涙の海を渡って行く。彼女が信じている岸を目指して、ゆっくりと漕ぎ出した。
 彼女のことを、信じてみたいと思った。
 彼女が信じているものを、信じてみたかった。

 ああ、自分はまだまだ、井の中の蛙だった。
 そうだね、オレは、恋をするべきだね。

 ふと、自分の言葉で彼女が泣いていやしないかと、何故かそんなことが気になった。





 青々とした芝生の上に、色彩豊かなドレスの花が咲く。頭上には色取り取りのフラッグモビールが皆の心を躍らせている。風に乗って、葉と葉が擦れ合う音と、人々の笑い声がさざめきとなって庭を満たしていた。
 その楽しげな空気を表すかのように、キュッキュッとヴァイオリンがアップテンポな曲を奏で、ドラムスが追い上げるようにリズムを刻む。ギターがボロンと音をこぼして、それが終わりの合図となった。途端に、周囲から拍手が爆発し、口笛が鳴らされる。ふたりはヴァイオリニストの目線で立ち上がり、優雅にお辞儀をして、この日の為に呼ばれた演奏者達に場を譲った。
「とっても、とぉっても素敵だったわ、ありがとう、薫っ!!」
「どういたしまして、マリナちゃん。嬉し過ぎて、このまま攫ってしまいたくなるよ」
 互いにギュウギュウ抱きしめ合うふたりの言葉に、美馬は苦笑いした。
 ふたりのことを微笑んでみている彼や彼女も、呆れたように見ている彼も、渋い顔で眺めている彼も、誰も彼もが皆、マリナの幸せを願って止まない人達なのだ。彼女を不幸せにしようものなら、地獄の底まで追いかけて殴られそうだと、ひとりごちる。
 美馬は、彼女に告白する前に屋敷の主である友人に想いを打ち明けたことを思い出した。
 彼が、彼女のことを愛していると、知っていたから。
 彼女が悲しいと、自分も悲しい。だから、そんな思いはさせないからと告げた。そうすると、彼は眉根をギュッと寄せて、「あたりまえだ」と不機嫌そうに言う。美馬はかすかに笑み、ありがとうと言うと、彼はあるかなしかの微笑を浮かべて、何も答えなかった。
 皆の笑顔の中心に、一際幸せそうに笑う彼女がいる。
 彼女が幸せなら、美馬も幸せだ。美馬の幸せは、彼女に渡るだろう。その彼女の幸せは、彼女の周りに花を咲かせる。からかわれてふくれっ面の時でも、怒りに眉がつり上がっていても、彼女が元気でいて、幸せそうならば、彼女につられるようにみんな笑顔になる。彼女の笑顔は、周りを明るくする太陽の微笑みだ。
 深くなった緑を見上げると、陽に透けてエメラルドのように輝いている。風が吹けば、ゆっくりとその身を任せ、地上にキラキラと光の粉を振り落とす。木漏れ日が揺れる。芝生の上を撫でるように風が通り過ぎれば、またゆったりとした時間がやってくる。
 美馬は太陽の光を浴びながら、手を振る彼女ににっこりと笑みを返す。左手で指輪がキラリと光った。そうして、甘えるようにあたたかな温もりを寄せてくる彼女のおでこに、そっと口付けを落した。嬉しそうに体重を預けられれば、美馬もギュッと抱く手に力を込める。
 彼女と過ごした、そしてこれからも続いて行く、木漏れ日の中の幸福な日々を想う。
 理想通りの自分、理想通りの世界じゃないけれど、美馬は構わなかった。
 それよりも、もっと大切なことに気付いたから。
 彼女が隣にいて、笑っていてくれれば。
 彼女がいれば、大丈夫。
 花溢れ、世界は美しく輝いているから。



<完>


BGM:
I Need To Be In Love/Carpenters
The Rose/Bette Midler
君は太陽/スピッツ



Request by 右京


私が作成した『HTM検定試験問題』の優勝者である右京さんに捧げる賞品(お話)です。
リクエストは、「美馬さんの幸せな結婚」。
それまで、私の中での美馬さんのイメージソングは『Alone Again』(結婚式直前で婚約者に逃げられる男性が主人公)でしたから、もう、全く、方向が違う訳ですよ。
そして、私は、シャルマリ派。美馬さんには興味がない。なのに、結婚をさせろという……。しかも、幸せな……。
もうね、難産なのは致し方ないことでした。詳しくは、ブログを参照してくださいませ!




inserted by FC2 system