つかのまHoliday



 悪い事というのは続くもので、シャルルは3週間前から寝食の時間を削り、何がしかの対応を考え、実行させ、調整し、次の問題に移る――ということを繰り返している。そのわずかな合間に雑務をこなし、論文まで続けている。どれも片手間の仕事ではないことは、彼の纏う空気や厳しい表情を見れば一目瞭然だった。誰かが代われる仕事ではないこともわかっているだけに、ジルとマリナはもどかしい思いを募らせ、食事の用意や細かな調べ物など、少しでも彼の手を煩わせないようにとフォローした。

 そうして、ようやくその仕事が終わったと言えるような状態になり、シャルルがいつもの時間に食事を取れ、いつのものようにゆっくりと起きられる環境になった時、彼の足は自然とマリナの方に向かっていた。
 彼女は裏庭にいて、噴水の中央に据えられた彫刻を見ながら、デッサンの練習をしているようだった。仕事以外では見せない真剣な眼差しに、彼は少し離れたベンチに腰掛け、彼女の邪魔をしないようにそっとその様子を眺めることにした。
 チョロチョロと流れているせせらぎや、小鳥のさえずりを聞きながらいると、まどろみを覚える。ふんわり、誘うように、涼しい風が額を撫でた。

 暖かい陽光が降り注ぐ日向で、彼女は無心に手を動かしながらスケッチをしている。傍らに来た男がうたた寝を始めたことにも気付かないくらい集中して、その手を止めることはない。鉛筆が紙の上を走る音だけが彼女の耳に入る全ての音だった。

突然、カサッと音がして振り返れば、清楚な美女がバラの束を抱えながらこちらにやって来るところだった。バラの持つやわらかくて甘い香りが、彼女の元にまで届く。
「……珍しいものを見てしまいました」
 視線の先にいる男を見て驚きながら、曖昧な相槌を打ち、苦笑いを返す彼女に、ジルはからかいの言葉を飲み込んだ。
「ここ数日、ずっとごたごたしていたからですね」
 ジルが昨日までのことを思い出しながら、声に悲しさをにじませてしんみりとそう言った。
 彼女は鉛筆を置いてゆっくり立ち上がり、白金の髪に纏いついた葉をそっと摘む。
「結局、何もして上げられなかったわね」
 ふぅっと風がそよぎ、彼女の髪を舞わせ、ジルの眼から彼女の表情を隠した。瞬きした瞬間の後には少しだけ自嘲気味に微笑む彼女がいて、自分も同じような表情をしているのだろうかと、ジルは思う。気持ちの差異はあれど、ずっと彼女の近くにいて、同じ思いを共有してきたのだ。自然と、彼女と同じ表情をしているに違いなかった。
「大変な時に、何もできなかった」
 彼のためにして上げられることは何もなかった。
 それは彼女の気持ちであり、そして、事実だった。彼の仕事に関することで彼女が出来ることは何ひとつなく、少しでもいいから食べて、風呂に入って休めと騒ぎ立てるだけだった。
「……シャルルは自分が出来ると判断すれば、たとえ窮地に陥ったとしても、助けは求めないでしょう」
 そう言ってジルは彼女を慰めた。けれど、まだ遅くないとも思う。出来ることはまだある。
「マリナさん、私はこんなにも無防備なシャルルの姿を初めて見ました」
「……そうかしら?」
 彼女は眉根を寄せて、思案するように首を傾げた。
 寝室以外の場所で寝ていること自体が珍しい、ということに思い至らないのは、普段から彼が彼女の傍で寛いでいるからだろうとジルは考え、笑みをこぼした。
「そうですよ。マリナさんの傍にいると、シャルルは安心できるんですね」
 彼女は何も言えず、俯いて黙ってしまった。

 にこやかに微笑みながらジルが去って行った後も、ずっと彼女は同じ問いを繰り返した。
 “自分は本当に傍にいるだけで安心できる存在なのか?”と。答えは眠っている、この、口を開けば嫌みや皮肉しか言わない男に直接聞かなければわからない。けれど、どちらかといえば、彼を怒らせている確率の方が高い彼女は、それだけは避けたいと、弱気にも思った。

 ふと、彼を覗いてみる。
 長い睫毛が青灰色の瞳を隠し、彼がまだまどろみの中にいることを教えてくれていた。
 心地よさそうに眠る彼を見ていると、彼女は不意に彼に触れてみたくなった。それは、美しいものに触れてみたいという純粋な気持ちからだ。決して疾しい気持からではないと、自分に言い訳をしながら、そっと、彼に手を伸ばす。
 透き通る白い頬に、指先が届いた。
 そのままするりと頬を撫でると、彼女は彼の前髪を軽く弄る。
 ――それでも、彼は起きない。
 そうなると益々大胆な気持ちになり、彼女は隣に腰を下ろし、彼の顔をペタペタと触り始めた。艶のある髪の中に手を入れて梳いてみたり、前髪を上げながら額を撫でてみたり。彼女はそうすることが楽しくて仕方なかった。冷徹、冷淡、唯我独尊なこの男が、自分の好き勝手にされるがままなのだ。こんな楽しいことはないと、どんどん大胆になった時だった。

「くすぐったい……」

 耳慣れた声にハッとして彼の顔を見れば、物憂げに目蓋を開き、まどろみが強く残る青灰の瞳でじっと見られていた。彼のその視線を意識した途端、彼女は耳までカッと赤くなり、自分が今まで何をしていたのか改めて思うに至った。
「あ、ごごごごめんねっ!?」
 起こしてしまって、と続けたかった彼女の言葉は、こめかみに触れていた手をパッと放そうとした瞬間ピタリと止まってしまった。彼女の手首が、彼に掴まれてしまったからだ。
「いいよ。もっと撫でて」
 いつもより穏やかな口調でそう言って、彼は再び目蓋を閉じた。
 自由になった彼女の手は空中で止まっていて、それはそのまま彼女の心情を表しているようだった。
「……今日、だけだからね」
 意を決して彼女が呟くと、彼は唇の端を上げて笑う。
 さすがにもう直接肌に触れることは躊躇われたので、彼女はやわらかな彼の白金髪を撫でることにした。
 撫でながら、ジルの言っていたことはこういうことかなと、彼女は思ったのだった。



  <end>


Present for マーガレット


何年か前のマーガレットさんの誕生日に無理やり押し付けた、
お話とも呼べないものをSSにしてみました。part2
そして、「和ぎ」の10歳の誕生祝いも兼ねていたり、いなかったり?(笑)。

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