ていきてきにけづくろいをしてあげましょう



「結局、何もして上げられなかったわね。……何も出来なかった」
 それが、混沌とした意識の中で聞いた、最初の言葉。

 暖かい陽光が降り注ぐ日向で、彼女は無心に手を動かしながらスケッチをしている。
 そのすぐ隣で書類に目を通していたはずなのに、いつの間にか眠っていたらしい。連日の疲れが溜っていたのだろう。ほったらかしにされて怒っていた彼女に手を引かれ、外に引っ張り出されてしまっても放さなかった折角の書類が、今はもう、ただの紙束のように思える。
 暖かく、包まれるような優しい空気に身を浸して、また眠りの中へと沈もうとしているのに、意識はまだそこに留まって、微かな感覚を伝えてくる。壊れ物を扱うみたいにそっと触れてくる――何か。
 それはそのままするりと頬を撫でて離れて行き、額にかかっていた幾筋かの髪をすくい上げた。そんな風にされても不思議と不快感はなく、むしろ安心するようなくすぐったさを伴って、やわかくもあたたかい気持ちにさせられる。
 さわさわと、心地よい風が通り過ぎる。
 こうして、誰かの隣で眠ったことはなかったなと、ぼんやりと考える。睡眠をとることはあっても、眠り落ちるということはなかった。
 そうしていつまでもその場所にいて黙ったまま寝ていると、その手はどんどん大胆になっていき、顔をペタペタと触り始めた。髪の中に手を入れて何度も梳いてみたり、額を撫でるように前髪を梳いてみたり。繰り返し、繰り返し、飽きることなく繰り返される行為。
「くすぐったい……」
 堪らなくなって声を上げると、その手がビクッと過剰なほどの反応をみせた。
 瞼を半分ほど開けると、身を乗り出していたマリナの姿があって、眼が合うと、こちらがびっくりするぐらい真っ赤になった。――見られたくないところを見られた、そんな感じだろうか。
「あ、ごごごごめんねっ」
 悪くもないのにそう言って、触れている手を離そうとする。
「いいよ。もっと撫でて」
 離れようとするその手を握って止め、再び瞼を閉じる。しばらくして、ようやくマリナが意を決したように口を開いた。
「……今日、だけだからね」
 甘いな、と思いながらも、同じような調子で繰り返される手の動きに、言いようのない安らぎを感じる。全てを預けて、ただその感覚だけを追っていけば、その先に幸せがある気がする。

 君が何も出来ないだなんて、とんでもない。
 君の手は、こんなにも安らぎを与えてくれている。





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