幸せの黒い蝶



 優しい風が草花や梢を通って静かに賑やかに通り過ぎる。戯れに窓辺のカーテンを揺らし、その存在を家のものに伝えている。リンとウインドチャイムが鳴れば、誰しも心が和やかになるだろう。もう随分と時が経ったと思っていたが、この庭は今も昔もちっとも変わらない。ここに流れる時は、外と比べると非常にゆっくりとしている。もっとも、最近までこの屋敷の権利を握っていた人物の力もあるだろうけれど……。
 古い屋敷の中央を見る。
 今、そこでは過去と未来が同席して、審判が下されるのを待っている。
 ずっと長い間、待っていた瞬間だ。
 この時を待つことなら出来たのに、たったひとつ、一瞬の判決が待てない。
 彼等を信じている。これまでの時を信じている。けれど、やはりドキドキして落ち着かない。祈ることしか出来ない身には辛い時間だ。

「大丈夫。私を信じて待っていてくれ」

 ――そう言って微笑んだ、あの人を信じている。



 庭の草花の中心に彼女が立っていた。
 昔からある大きな木が枝を広げて芝生の上に影を落としては、様々に模様を描いている。花と葉の影が濃く輝く。乾いた生温い風が吹いて、彼女の髪をゆったりと空に舞わせている。黒いスカートの端は風と同じ方向を向いて揺れ、膨らんでは縮む動きを繰り返していた。白いものが混じっている茶色がかった髪も、袖から覗く腕や足にも、時の流れを感じ取ることが出来た。けれど、この想いは今も昔も変りなくこの胸にある。幸せだったと、言ってもらえる自信もある。ただひとつ、同じ名前を名乗ることが出来ないということを除けば。
 たかが名前ひとつと彼女は言ってくれたけれど、それは最後まで共に生きるという誓約だ。軽んじるには、その存在が少々大きすぎた。
「マリナ」
 呼ぶと、彼女はゆっくりと振り返り、ふっと笑んで眼を細めた。
 差し出した手の平に、彼女の手が重ねられる。
 木の下の、薄暗い木陰にひっそりと置かれているベンチに並んで座ると、黒い蝶がヒラリと横切った。黄と青の華やかな色彩を包むように、黒い模様が全身を覆っている。艶めかしさを合わせ持った蝶はその後、庭園の奥深くへと飛んで行き、時折、思い出したように木漏れ日の光を浴びて、その美しい体を閃かせた。
 その様子をふたりしてしばらく無言で眺め、やがて彼女は思い出したように口を開いた。
「シャルル、ルパート大佐は元気だった?」
 いくら彼の階級が上がろうとも、彼女は出会った頃の階級名で彼を呼ぶ。ケロリとした顔の奥で、嫌そうな顔をするルパートを楽しんでいるのだと、ひそかに思っていた。それも慣れてしまった今では、その名に昔馴染みの親しみが込められている。
「相変わらず。元気だったよ、彼は。少しくらいこちらの見方をしてくれても罰は当たらんだろうと言ったら、完全に君に毒されたなと返して来たよ」
「ホント、失礼なほど元気そうで何よりだわっ」
 怒った顔をしながら、彼女の横顔はやはりどこか楽しそうだ。
「……どうなったか、聞かないのか?」
 核心を衝くと、彼女の体がかすかにピクリと反応を示した。
「まさか、あなたが付いていながら失敗したなんて言うんじゃないでしょうね。やめてよ、あたしはあなたを信じているのよ。もちろん、あなたの計画通りだったのでしょう?」
 ほのかに暗い木陰の中で輝く瞳が、不安に陰って枝葉のように揺れていた。けれど、その中に木漏れ日のような光を見つけて、彼女が心底から不安に思っていたのではないと知れた。不安を煽って染めさせたのは私だ。その事実と彼女の言葉に、我知らず笑みがこぼれていた。
「もちろんあの子が当主になったよ。しばらくは忙しくなるだろうから、祝うなら今の内だ。でも、その前に、私の話を聞いて欲しい」
 立ち上がろうとする彼女を言葉で制して、その前に片膝を立てて座った。
 キョトンとする彼女を仰いで、その先にある未来を思う。
 ――彼女と出会えてよかった。
 彼女が考える以上に、私の世界は一変して輝き始めた。その世界の終りまで、私は彼女と一緒にいたい。ずっと、傍にいてほしい。
「この日をずっと待っていた。あの日の約束は覚えてる? 私がアルディから解放されたその時、結婚しようと言ったことを」
「ええ、覚えているわ。その時に、まだあなたと結婚する意志があるならって話だったわね」
 彼女は遠くを見るように眼を細めて、軽く頷いた。
 嫌なところまでよく覚えているなと思いながら、少し安堵した。どうやら彼女は、このことをきちんと正面から受け止め、考えてくれていたらしい。
「今でも私の気持ちは変わらない。マリナ、改めて言うよ、私と結婚してくれないか?」
 彼女はきっと知らないだろう。私の胸が未だに忙しなく鼓動していることを。今も、昔のように心が震えていることを。
 自信ならある。
 様々な権限がなくなっても、彼女ひとりを幸せにするくらいできる。それでも、小さな不安が拭い切れずにいる。
「これを、君に……」
 レンズの奥の茶色い瞳が、差し出した指輪を映して驚きに見開かれた。
「すっかり老いて、もう皺くちゃのおばあちゃんになっちゃっているわよ?」
「ああ、待たせてしまったね」
 気持ちが読めない複雑な表情で、彼女は指輪をじっと見つめていた。
 わかっている。彼女は、結婚という形式に私ほど囚われてはいない。生まれた国を間違えたのではないかと思うほどに。けれど、私は彼女と結婚したい。彼女にその気がないなら、その気にさせればいいと思った、昔の気持ちを思い出す。
「あなたは、それでも、こんなおばあちゃんと結婚したいの?」
「ああ。……知っての通り、私にはもう何の権限もない。全て次の世代に授けてきた。昔、私は君に何もかもあげると言ったね、手にできる全部を君にと。でも、今の私の手中にはほとんど何も残っていない。残ったのは、プライド高い爺さんだけだ。彼はずっと訳あって未婚を通してきたけれど、今、煩わしい問題がすべて片付いたから、ずっと想い続けてきたひとりの女性と結婚したいと思っている。皺くちゃのおばあさん、こんな爺さんでよければ、どうか結婚して下さいませんか?」
 彼女が小さくクスリと笑い、胸に当てていた手をゆっくりと伸ばしてきた。
「やっとあなたから指輪をもらえたわ」
 細いリングをつまみ上げ、少しかかげて感慨深げに指輪を見つめる彼女は、木の葉を通して降り注ぐ緑の光の中で、どの記憶の中の彼女よりも美しく見えた。酸いも甘いも、幸も不幸も越えて、呑み込んで、享受してきた人間の微笑みは、優しく、美しい。
「新婚旅行はもう月まで行けそうにないけれど、許してくれる?」
「もちろんよ」
 輝くような笑顔でそう言ってくれた彼女を抱きしめて小さな手を取り、薬指にゆっくりとリングをはめた。ふたりの視線が、同じものを見つめている。木漏れ日が、なめらかなリングの表面を滑ってきらめいた。
 それは永遠の誓約。
 私ひとりの一方的だった約束が、これからはふたりで守っていく約束になるのだ。
「あっ、そうだわ、忘れるところだったけれど、あたしもあなたに渡したいものがあるのよ!」
「…………」
 ムードを壊され、余韻を楽しめずに彼女が離れて行ってしまったけれど、彼女の瞳に幸福の灯りが消えずに宿っていたので、私は「後でもいいじゃないか」という言葉を飲み込んだ。何より、彼女らしい。
「君からプレゼントなんて珍しいね。期待してもいいのかな」
「期待には添えられないかもしれないけれど、受け取ってくれるとうれしいわ」
 皮肉のこもった軽口にもすっかり慣れてしまった彼女は、さらりと受けて流した。その反応を日常のように返してもらえる瞬間が、いつでも、とても愛おしい。
 彼女はいつも持ち歩いている愛用のポシェットから、四角い箱を取り出した。箱には薔薇色のリボンがかかっていて、そよぐ風にふわふわ揺れている。彼女はそれをとても大切そうに扱いながら、そっと手の平に乗せていった。
「開けてみて」
 言われた通りに、リボンに手をかけた。スルスルと解けていくリボンが、黒箱の上を滑っていく。
 蓋を開けると、そこには腕時計が入っていた。丸いフォルムの中央は透明になっていて、様々なねじが忙しく動いているのが見えた。黒の文字盤と銀色の縁取り、白の美しい書体と凝った針。クラシカルで洗練された印象を与えるそのシンプルなデザインは、自然と人の眼を集めるものだった。
「これならどんな時も身に付けていられるでしょう? この時計が動かなくなるまで、あたしはずっとあなたの傍にいるわ」
 腕に巻いた時計にそっと触れながら、彼女はそう言った。
「永遠にって言わないところが、実に君らしいね」
 けれど、意図することは同じだった。今、この時を刻む腕時計は、その内部にローターが組み込まれている。ローターが回転することによってぜんまいが巻き上げられるのだが、水晶振動子を用いたクォーツ時計とは違い、電気動力を必要としないため、壊れるか、長時間放置しない限り、時を刻み続けるのだ。
 彼女が時計に込めた意味が私の心をくすぐって、愛おしさが増すのがわかった。
「君は私のものだ、マリナ」
 彼女の頭をそっと抱きよせて、キスを落とした。
 そうして指輪をはめた手を取り、リングの上にもキスを落とし、彼女の手をそのまま自分の胸の上に乗せた。
「そして、私は君のものだ」
 永遠に、と唇が触れる距離で囁いてみたけれど、彼女は聞こえていただろうか。確かめるための眼はもう閉じてしまっていた。
 瞼の裏で、空と海が交じるのを見た。海の向こう側に太陽が沈もうとしている。
 それはふたりで見た、最も美しい景色。
 溶けだしたように広がる歓喜の蜜柑色と、悲しみの濃藍。熟した鮮やかな果物の色が胸の内から溶けだし、果てなく広がる孤独な深い海と交じる。
 黒い蝶は、そんな喜びと悲しみの色を合わせ持ちながら、木漏れ日が差す緑陰の中を優雅に舞っていた。絹のようなあの漆黒に全てを包んで。
 もし今の私の気持ちを具現化することが出来るなら、きっと、黒い蝶の形を取るのだろう。ヒラリヒラリと舞うその姿は、愛おしい人の姿にも似ている。
 ――だから、これでいいのだ。
 私が彼女と出会って知った哀しみも、苦しみも、歓びも、この日の為にあったのだとすら思える。
 今、その全てをこの暗闇に包んで輝く黒い蝶を、思い出の美しい景色が広がる幸福な空へと、高く、高く、解き放そう。



<Fin>




「広場」の七夕企画チャット時にUPしますと言って公開されたお話です。
本当はずっと頭の中で温めていたお話で、お話創りを辞める時は、全ての集大成として、このお話を最後にしようと決めていたのです。
もうすっかり幻になってしまいましたけれどね(笑)。
「あの子」とは、もちろん、シャルルとマリナの子供です。
子供が赤ちゃんの時のお話もあるのですが(頭の中に)、そのお話の主役はルパート大佐だったりします。

このページにお話の「余談」SSへの入り口がありますので、探してみてください。

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